'11読書日記87冊目 『意識は実在しない 心・知覚・自由』河野哲也

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

意識は実在しない 心・知覚・自由 (講談社選書メチエ)

226p
総計25639p
「意識は実在しない」というなかなかスリリングなタイトルであるが、より哲学史的な語彙に置き換えて言えば、「デカルト的コギトは存在しない」ということにほかならない。主観/客観の二分法に変えて、ジェームズ・ギブソンアフォーダンス理論を参照しつつ、機能主義的に「心」が定義される。「心」は客体から切り離されて存在するのではなく、むしろ客体=環境との相互作用という機能として存在する。筆者はそれを「拡張した心」と呼ぶ。要は、主体中心主義を環境との相互性によって相対化する試みである。その途上でクオリア批判が行われ(第二章)、最終的にはアクターネットワーク理論も視野にいれながら言語の問題にまで踏み込んでいく(第四章)。
僕にとって面白かったのは第三章「意図と自由の全体論」で、ここでは行為と自由がアフォーダンス理論から取り上げ直される。その中では、さらに、綾屋紗月・熊谷晋一郎らのアスペルガー障害と脳性まひの当事者研究が援用され、知覚情報が統合されることで「意図」が成立していく過程が、そうでない事例を反照して導き出される。普段、われわれは空腹を感じる(A)と、何かを食べたい(B)という意図が生じるが、アスペルガー患者の場合、(A)には(反A)が同時に同程度だけ随伴し、それらのあいだに葛藤が生じ(B)の意図を引き起こすことができない。つまり、普通、行為の能動性や自律性あるいは自由というものは、意図の決断性にこそあると思われているが、その意図を引き起こすためには(A)と(反A)(あるいは非A、非A',非A''…)という知覚情報のなかから「意図の分節化が生じるように動機づけを強めること」が必要となるのである(p156)。

意図の形成が以上のようであるとするならば、私たちは個々の行為の意図を分節化することと、その分節化を促すような第二階の態度(高階の、メタの態度)があることを認めなければならないだろう。それは、ある分野における個々の意図を分節化し、行為を全体に推し進めようとする態度であり、私はそれを「意欲」と呼ぶべきではないかと思っている。
…意欲は、ある分野における行為の遂行を推し進めようとする意志であり、言うなれば、ある分野の行動を続行させる積極性のようなものである。この意欲の背後に、さらにそれを意志する主体を設定してしまえば、無限後退を起こしてしまう。したがって、私たちは、意欲を最終的な基盤と見なすべきである。すなわち、意欲が人間存在の全体性、すなわち、人格的なあり方なのである、(p157-158)

こうした「意欲」という二階の発想は、カント的な用語を使えば、超越論的選択とでも言うべき事態を説明している。カントの定言命法「汝の意志の格率が常に同時に普遍的妥当性を持つように行為せよ」は「何を意志するか」ということについての試金石であった。それは筆者の議論で言うならば何を「意図」するか、ということにほかならない。それは古典的な行為論・自由論の発想である。しかしカントは『宗教論』において、どのような傾向性(Neigung)を格率に採用するかという選択自体も超越論的には自由であったと見なさなければならないと述べる。つまり、「あるものを意志する」という格率そのもののルールをどのように定めるのかということさえも、根源的で超越論的な自由に存するのであり、その意味で人間には圧倒的に責任がつきまとうのである(根源悪radikal boseの発想はここから出てくる)。これは筆者の議論で言えば「意欲」さえも、主体の自由によって選択され得たかのように見なす哲学的態度である。
しかし、カントが格率にどのような傾向性を採用するかということを自由の超越論的基板に据えたのに対し(ヘンリー・アディソンはそれを「繰り込み理論」と呼んだ)、筆者はその超越論的な選択には自由を見出さない。そうではなく、意図を形成する意欲は知覚情報に委ねられている以上、知覚そのものに、すなわち何らかの環境に対して自己を晒すことそのものにあるというのだ。アフォーダンス理論によれば、環境を知覚することによって、主体は何らかの行為をアフォードされる。例えば、握れる大きさの石は投げることをアフォードするといった風にだ。

行為者は、自らの運動の相関者として、環境中のアフォーダンスを包含することで一定の行為を成立させる。その意味でアフォーダンスは、動物個体の行為の文脈と相関した環境のもつ潜在性であり可能性である。
…[ところで]何かを求めながらも、そこにどのような項目が代入されるか、本人にも分からない点が「知る」という行為の特徴である。[それゆえ]知る行為の中にこそ、選択の自由の可能性が存在する。知覚とは、自己を制御して変えるための因子を環境中に見出すことである。新しいアフォーダンスを見出すことは、そうした知る行為のひとつであり、新しい自己を見出すことである。(強調は僕。p175-176)

カントが自らの傾向性を格率に組み込むことに超越論的・根源的な自由を措定するのに対して、筆者は知覚において自らを未知のものに開いていく態度のなかに自由を措定する。しかし、表現は違えど、どちらも自らが積極的に選びえない(はずの)もののうちに自由を見出すという態度において一致している。カントにおいて根源的な選択・自由と呼ばれる傾向性の格率への繰り込みは、普通、全く意図的・能動的には選択され得ないものである。例えば、盗み癖のような傾向性を格率に持つ人間は、その傾向性を自ら積極的に選んでいるわけではない。しかし、カントの理論によれば、第一に「責任」の概念を手放さないためにこうした超越論的な選択は想定されねばならない。だが第二に、カントを解釈する上でより重要なことには、自らが能動的に選び得なかったものによってこそ主体の自由が構成されているという偶有性を見極める上で、この超越論的・根源的な選択は重要である(こうした議論は例えばアレンカ・ジュパンチッチがラカン精神分析と対比させながら述べている)。筆者の、アフォーダンス理論を援用した「知覚の自由」とでも言うべき自由の理論にはこれらの議論に通底するものがある。人間が環境を知覚することによって、環境を知ることによって自らの行為・意図を形成させるのだとしたら、「本人にも分からない」何かを知ることは絶対的な偶有性に自らを開くことでもある。それは環境に受動的・偶有的に晒されることによってしか構成されない主体の自由という二階の超越論哲学を要請するものなのだ。
だが、筆者は、このような理論的ポテンシャルを肝心な所で手放してしまう。

結論すれば、自由の本質とは、創造的かつ合理的に振る舞うことであると思われる。すなわち、私達の自己を拘束している身体内外の諸条件を超克するような新しい振る舞い方や新しい自己のあり方を見出すこと、そして、その振る舞いやあり方が非合理的で、根拠や一貫性のないものに陥らないでいること。これが自由であることの条件であろう。…何かを真に知ることは、それまでの行動パターンを変えることである。(p175)

この引用は、偶有性に対して開かれつつも主体内秩序を維持していく自己統治の自由について触れている点で全く正しい(そしてそれはフーコー的あるいはバトラー的でさえある)。だが、筆者は引用箇所に続けてバーリンの有名な積極的自由の定義に触れつつ、こうした知覚によって自らの行為・意図を形成していくプロセスを「積極的な自由の探求」と呼び、「それは、様々な選択肢の中から、何かを選び取り、そのことによって自分と環境の関係性を安定させようとする試みだからである」とさえ言うのだ。しかし、重要なことは、積極的に何かを選択するということに自由が存するということではなく、何かを積極的に選択する「可能性」「潜在性」の側にこそ、つまり環境の知覚という「本人にも分からない」未知の・主体にとって偶有的なものの側にこそ自由があるということではなかっただろうか。筆者は、最後の最後で、結局は大いなる近代的な主体論に回帰してしまう。主体の意志の自律性、客観性から切り離された主体性を否定した後で、いったいどのようにして「様々な選択肢の中から、何かを選び取」るということを自由と呼ぶことが可能になるというのか。そうではなく、選択を可能にする潜在的な偶有性にこそ自由があるのであり、主体にとって積極的な選択の自由はそれによって構成されている(かにみえる)のではないのか。