’11読書日記89冊目 『すべて王の臣』ロバート・ペン・ウォーレン

すべて王の臣

すべて王の臣

542p
総計26401p
修士論文を書き終えたご褒美に、久しぶりに長編小説が読みたくなって、積読しておいたこの本を手に取りました。もともと、加藤典洋敗戦後論』に、この本から次の印象的な言葉が引かれてあって(それはストルガツキー兄弟のSF『ストーカー』のエピグラフでもあったのですが)、その時以来読みたいと思っていたのでした。

君は悪から善をつくるべきだ、それ以外に方法はないのだから。

南部のある州を舞台に、ポピュリズム的手法に訴えながら権力と金にものを言わせて政治の舞台を生き抜く男、ウィリィ・スターク。その男の右腕として様々なダーティワークを処理していく元新聞屋のジャック・バードンバードンの視点から、スタークが州知事に当選し最後に没落していくまでを描いた力作です。スタークは、民衆の心に直接響くようなスピーチをする天性の才能の持ち主であり、しかも前知事の政治的腐敗を弾劾して当選し、民衆に善をもたらそうという政治的使命感に燃えています。具体的には、無料の病院を建設するとい うことがスタークの最大の公約だったわけですが、そのために彼はライバルを買収したり、病院長に就任して欲しい人物の妹と寝たり、あるいはライバルの指南役である老判事を懐柔するために判事の過去の悪行を暴きだしたりと、様々な手段を用いようとします。上の言葉は、彼の政治的モットーと言うべきもので、スタークは目的のためには手段を選ばないマキアヴェリストであると言えるでしょう。彼は、しかし、民衆を操ろうとするようなマキアヴェリストではありません。政界の中での汚らしい権力争いにおいてマキアヴェリストなのであって、決して人民を権力で弾圧するような人物ではありません。ポピュリスト的マキアヴェリスト、つまり極めてファシズム的な要素を持った政治家なのです。彼は民衆に向かって叫びます。

「一つお聞ききしたい。神の前でいと高きものの恐るべき御手の下で答えて欲しい。答えていただきたい、わたしは皆さんを失望させてきたか? どうでしょうか?」
それからぐっと身を乗り出して、彼はその問いがまだ空中に響き渡っているうちに右手を上げて言うのだった。
「静かに! 皆さんの心の奥をのぞいて真実を知るまで答えないでください。というのは真実があるのはそこだからです。本の中ではない。弁護士の本の中にではない。切り抜きの中なんかにではない。皆さんの心の中だ。」
それから長い間をおいて、彼は群集の顔をゆっくり見渡した。そして「答えてください!」
・・・
どよめきが盛り上がり高まっては落ち高まる中に、ボスは右手をまっすぐに天へ上げ充血した目はふくれ上がったまま突っ立っていた。そしてどよめきが消えると彼は腕を上げて言った。
「皆さんの顔の中をのぞきました!」
すると群衆は叫ぶのだった。
「ああ神よ、私はしるしを見ました!」

スタークは自らの神がかり的な能力――民衆の心を掴むカリスマ的能力――を理解し、それにうぬぼれ、新しい無料の病院を建てるために様々な権力争いを繰り広げ、その果てにやがては銃で撃たれて死ぬことになります。こうした一連の政治劇を、その渦中にいつつ見守るのが、ジャック・バードンです。彼はスタークのために働きながら、やがて自分の初恋の相手がスタークに寝取られたことを、そして自らが過去のスキャンダルを暴き立てて自殺に追い込んだ老判事が自分の父親であるということをも、知るにいたるのです。 このように、この小説は、スタークの政治劇を通じてジャックが自分の過去の真実を知るプロセスをも描いているのであり、そこにはオイディプス的な色合いが濃くあります。筆者のロバート・ペン・ウォーレンの書く文章は、観念的で内省的な比喩に満ちており、魅力的です。ウォーレンは、ヘミングウェーやフィツジェラルドらいわゆる「ロスト・ジェネレーション」世代の作家の一人でもあります。この小説も、ジャック・バードンがスタークの政治哲学――悪から作り出された善――に魅入られつつもそこにはどうしても没入できないということを知る、ある種の成長物語になっているのですが、例えば『グレート・ギャッツビー 』の失われたgreen light同様に、それは信じていたものが失われていく、いやそれでも信じなくてはならない、という筋書きをなぞるのです。
スタークが死に、全てのごたごたが過ぎ去った後、ジャックはスタークの妻ルーシーに会いに行きます。

「えらい人だったのよ」と彼女はささやきに近い声でもう一度はっきりと言った。それからまた私をもう一度見つめて、静かに付け加えた。
「ねえジャック、私はそう信じなくちゃならないわね。」
そうだ、ルーシー、そう信じなくちゃいけない。生きるためにはそう信じなくちゃならない。あなたはそう信じるに違いないことが私にはわかる。別な風に信じてもらいたくはない。そうでなくちゃならないし、私にはその事実が分かる。というのは、ほら、ルーシー、私もそう信じなくちゃならないからだ。わたしはウィリィ・スタークが偉い人間だったと信じなくちゃならない。どんな風に偉かったかは問題ではない。瓶がこわれて液体がこぼれるように、彼はその偉大さを地面にこぼしたことになろう。多分彼は自分の偉大さを積み上げて、かがり火のように闇の中で燃やし、大きな火炎を起こさせたのだろう。だがその火も今は消え再び闇となり、余燼がちらついているだけなのだろう。たぶん彼は自分の偉大さと凡庸さの区別がつかず、それらをごちゃごちゃにしたので不純物がなくなったのだ。しかし彼は偉大なものを持っていた。わたしはそれを信じなければならない。

悪からつくろうとした善は、決して善になることはないままに再び悪という灰燼の中に還って、もうどこにも見当たりません。しかし、スタークを信じ、それにほれ込んで行動をともにした、ルーシーやジャックは、「生きるために」自分が信じたものを信じ続けなくてはならないのです。たとえ信じたものが実際は糞だったと分かったとしても、自分が信じたはずのものは――自分に信じさせた何か 、スタークの中にあったはずの「偉大なもの」は――糞ではないのです。実は、この小説は背後に、神学的な関心さえも持っています。信じるということ、しかも神が死んだと知っている中で何かを信じること、このことを小説は問いかけてさえいるのです(「悪から善をつくる」という印象的な言葉さえ、ライプニッツオプティミズム(弁神論 )を想起させますが、主人公は自らを懐疑論的な観念論者であると名乗り、神の存在を信じてはいません)。 その点で、他の「ロスト・ジェネレーション」の作家たちとは一線を画するような重みを持つ小説を、ウォーレンは書いたと言っても言い過ぎではないでしょう。とても長い小説だし、本屋にもなかなか置いていないようなのですが、 ぜひもっとこの作品が知られて多くの日本人読者に読まれることを期待します。(もっと言えば、この訳は1966年の翻訳で、訳語が古く誤訳*1も散見されるので、誰かに新訳を出して欲しいところです)。

*1:例えば「観念論」という文脈で 出てくるidealistが「理想主義者」と訳されています