'12読書日記8冊目 『ビリー・バッド』メルヴィル

ビリー・バッド (岩波文庫 赤 308-4)

ビリー・バッド (岩波文庫 赤 308-4)

237p
総計2316p
去年の暮に岩波文庫で復刊されていたものを入手。『白鯨』は数ページで挫折した苦い経験があるのだが、こちらは展開もスピーディーで読みやすかったので一安心だった。メルヴィルは1819-1891という十九世紀の生き証人みたいな人物なのだが、時代を海洋航海という側面からえぐりとることに長けていた人物なのであろう。訳者の解説にあるように、そこにはペシミスティックな三段論法が見て取れる。

本来が悪である人間はサクラメントによって清浄をうる――神を見失った文明はこの秘儀に与る道はない

本書のタイトルになっている主人公ビリー・バッドは、エデンの園からの追放以前の原初の人間のような善なる存在として描かれている。船乗りとしての荒ぶれた人物ではなく、天性の気品と即自的な善性を持つ彼は、当時の英国政府の政策としての強制徴用によって軍艦に乗せられてしまう。天性の人の良さで軍艦の乗組員たちに愛されるバッドだったが、一人の上官の反感を買う。上官クラッガートは一見善良で貴族的な立ち振る舞いを見せる人物で、その「精神はいかにも殊勝げに、理性法則に合致しているかのよう」なのだが「心は依然として理性法則から完全に離脱」した狂乱の態にあり、外見の態度の「合理は非合理を達成するための」「危険きわまりない気狂い」だ。クラッガートは徐々にバッドを策略の中に引きずり込み、破滅へと追い込もうとする。だが、本書には、バッド対クラッガートという善悪の単純な対決は存在しない。クラッガートは陰険な策謀によってバッドをはめようとするのだが、バッドはあろうことかちょっとしたはずみで彼を殺害してしまうのである。ここで、善と悪は逆転する。しかも、それを調停するのは英国政府の法や船舶内の秩序を最優先する人徳者の船長である。船長は即時に船内簡易裁判を催行し、バッドを死刑に処してしまう。船長はバッドの善性を信じながらも、船内の秩序(当時の英国軍艦では強制徴用された乗組員等による反乱が相次いでいたことが描かれている)を優先するのだ。

戦時中は、戦場にせよ、艦艇内にせよ、軍事法廷が死刑を宣告すると〔…〕「死ぬる者」人間はすみやかに罪のあとを追う。控訴はない。

善悪の二項対立はさらに社会(法)と法逸脱的な善との対立の内に折り込まれることになるのである。しかも、最後には船長そのものも戦争によってすぐに死亡してしまうことによって、その対立さえも止揚される(しかしそれは否定弁証法とでも言うべきペシミスティックな結末である)。夜明けに行われたバッドの処刑のシーンは、象徴主義屈指の美しさを誇るものとなっている。ビリー・バッドがメーンマストの先端で絞首刑に処せられる瞬間、朝もやの中から柔らかい陽光が指してくる。船は静寂に包まれ、朝陽さす茜色の空が美しい。

手足を縛(いまし)められたその姿が、またもや帆桁の先端に舞い降りてきたが、ただただ驚異にうたれて瞠(みは)るみなの目には、万象が動を停めたかのように見えた。ただ、ひとり静の海にたゆとう船体だけがゆっくりと横に揺れ――重々しく大砲を鎧った、大きな船が荘厳に輝いていた。

ビリー・バッドという原初的無垢の存在が処刑されるところは、キリストの磔刑との重ね合わせも著しく、栄光に満ちた厳かな表現に心が打たれる。ビリーが社会的規範から逸脱する倫理的存在であることは、かれの吃音症にも現れている。クラッガートの策謀に反論しようとするが緊張のあまり声が出ず、吃るにも吃れず、つい手を出して相手を殺してしまうところなど、それが強かに描かれている。言語という社会的規範の象徴は、ビリーに優先的には現前しない。むしろそれは彼の無垢なる善性において立ち遅れ、それによって善が社会の規範の中で罪悪へと転化するのだ。それゆえ、キリストに似せられたビリーバッドの処刑のシーンには神秘的な光が現れる。しかし、そうした"サクラメント"は、文明社会において持続しない。

億劫の時の次元には、遙かなるかなたに、秘密の奥の院がある。「時」から生き残ったいのちにとっても、そこはいつまでも不可説の、神秘の領域なのだ。だが、やがて訪れる神の如き忘却が、いっさいの上に蓋を掩う。摂理とは、こういうことをいうのであろうか? ――なぜならば、忘却こそは、世のすべての、広大無量の心の神話にはつきものの、後日談なのだから。

文明の忘却。このことをメルヴィルは鋭く見抜いていたように思われる。しかし、それは「摂理」としての忘却だ。神秘は忘却される、摂理によって。このアンビバレンスを直視することにこそ、メルヴィルの文学的な感動は存在するように思う。
最後に、心に残った一文を。

その直截さは、ときとして、億劫の彼岸にまで達するものでなければならない。渡り鳥は飛翔中のじぶんが、いつ明暗の辺境を越えたかを顧みない――それと同じなのだ。
Their honesty prescribes to them directness, sometimes far-reaching like that of a migratory fowl that in its flight never heeds when it crosses a frontier.