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なんか色々書きたいこともある気もするが、とりたてて文章にしようと思うと言葉にならない。
最近通りを歩いていて、強烈な既視感に襲われる。通りの風景が既視感を持って現れてくるのじゃなくて、この気持は前にも体験したことがあるものだと、そのような既視感。自分の立ち位置のわからなさにしても、相手がどのように生きているのかにふしだらなほど影響されたりすることにしてもそうだ。
この前、友達とちょっとした言い争いをした。その最中に、その人が僕を見て笑った。真剣に苛立っている僕を見て笑った。そのあと彼は「不謹慎な笑いだね」と言って再び不機嫌さを取り戻した。何か自分の重大なものごとがひどく蔑ろにされ陵辱されたような気分になった、と言えば言い過ぎなのかもしれないが、悪意をつとに感じた。存在の底に溜まって腐臭を放っているどろどろとした澱が、一瞬だけれど、僕の顔に吹きかかった。根底的な悪意の澱は僕にもあるが、それを目の当たりにして困惑した。そして悲しくなった。自分をその人の悪意の中に見出したからか。それとも、自分という存在が根源的に拒絶されていると感じたからか。自分がひどく取り残されたような気がした。暗い井戸の底に見捨てられたような孤独があった。喧嘩はすぐにお互いが謝り合って、それからはもう何も無かったように振舞っていたのだけれど、僕にはそのときの友達の笑い方が忘れられない。彼を責めようとは思わないし、僕が悪いのかもしれない。しかし「不謹慎な笑い」というものはある。それはひどく悲しいものだ。
何かにすがって生きていくことは、苦しくてつらい。それが生きている人だったらなおさらそうだ。自分の期待はつねに裏切られるかもしれないから。自分だけで生きていくために必要な何事かを、僕は手に入れそこねたのかもしれない。友達と笑い合ったり楽しく喋ったり、それはそれで素晴らしい。だけどどこかでいつも、すがりつく何かを求めては退けられている自分がいて、友達といても満ち足りていない。何かに依存して生きることを知らず知らずに選択してしまった人間は、そこから自律することなんてできない。裏切られ続けても、幾度となく傷つけられても、それを求めてしまう。そんな苦しみから逃れられるのは、自律することではなくて、何か別に依存するものを見つけてそこへ鞍替えすることでしかないだろう。自分が愛したものが糞だったとわかっても、愛した自分はもう忘れられない、愛するということを。