'12読書日記23冊目 『人性論』ヒューム
- 作者: ヒューム,David Hume,土岐邦夫,小西嘉四郎
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2010/07/01
- メディア: 単行本
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総計6397p
ヒューム『人性論』の抄訳版と「原始契約について」、そして一ノ瀬正樹さんの解説が付いている。抄訳というのはどこを抜き出すのかという点で訳者の恣意性を加味して考えなければならないが、本丸を読む前の準備として。
第一篇では知性が、第二編では情念が、そして第三編では道徳について扱われている。カントが受けた「警告」は、もっぱら、第一篇で因果性を観念連合と習慣、信念の観点から批判する(というよりその内実を暴き立てる)ところに由来しているといえるだろう。
心がひとつの対象の観念もしくは印象から、他の対象の観念もしくは信念へと移る時に、心は理性によって規定されるのではなく、想像においてこれらの対象の観念を連合し、結び合わせるようなある原理によって規定されるのである。
われわれにはこうした相伴の理由を見極めることはできない。ただ事柄そのものを観察して、恒常的な相伴のために、対象が想像において結び合わされるようになるのをいつも見出すというだけである。つまり、ひとつの対象の印象が現れるようになると、いつもそれにともなっている対象の観念をすぐに形作るのである。そういうわけで、所信ないしは信念の定義の一つの部分として、それは現在の印象と関係を持つ、つまり連合する観念である、ということを確かなものとしても良かろう。
現在の印象に伴い、そして多数のかこの印象及びそれらの相伴によって生み出される信念、この信念は直接に生じるのであって、理性あるいは想像が新たに作用するのではない。〔…〕ところで新たに推論もしくは断定を少しも交えないで、過去の繰り返しから生じるものを、われわれはすべて「習慣」と呼ぶ。
ヒューム哲学における「理性」の位置は、認識論においても道徳哲学においても、(少なくともカントに比べれば)全く高くない(と思われる)。ヒュームにおいて理性は「情念の奴隷」であり、理性だけでは意志の働きにとって動機となりえない。理性は観念の間の関係の一致あるいは不一致か、また現実の存在と観念との一致不一致かを判定する、つまり真偽判定の能力しか持っておらず、情念のような真偽(一致/不一致)の埒外にあるものは、理性の対象ではないのだ。ヒュームの情念論は極めて興味深い。次の箇所が、どれほどの意味を持って読まれるべきかはまだつかめないが、驚かされた。
いったい、情念は原初的な存在である。あるいはそう呼びたければ、存在の原初的な変容である。つまり、情念は、これを何か他の存在、あるいは変容の写とするような再現的性質を何も含んではいない。