”日本語”ロックはどこへ? 

邦楽の新譜を追わなくなって久しい僕が、今日はかつての教え子がわざわざ京都から渋谷にライブに来るということで、彼らの”最先端”を聞きに行ってきた。四人編成のベーシックなバンドで、リズム隊がしっかりしているしリードギターもそこそこ上手く、聴き応えがあった。
だが、僕はその音楽の波に素直に身をゆだねることは出来なかった。というのも、ポストロック、あるいはオルタナと呼ばれるジャンルに属するのであろう当のバンドの「歌」が、全く耳に届かなかったからだ。ボーカルはその他の楽器の爆音に混然とし、いやかき消され、音の波に詩にも満たない断片が時折聞こえるだけである。もちろん音楽というものが言葉では表現できないなにごとかを伝えようとする衝動に満ちたものであるということも了解しているが、少なくとも「歌」としてそこに何がしかの言葉が「歌われる」以上、そしていくらオルタナティブ・ロックだといえども言葉を歌に乗せて伝えようとする形式を取っている以上、その「歌」が観客に全く聞き届けられないのだとしたら、彼らはいったい何を伝えようとしているというのだろうか? 歌詞が伝わらないという事態のあまりの不毛さに敏感でないのだとしたら、もはや歌うことをやめてインストでロックをしても良いのではないか。彼らは何のために歌っているのか。
マチュアのバンドだけを責める訳にはいかない。ある時期から――おそらくHi-Standardあたりから――日本のロック業界では英語詩を用いた音楽が大量生産されるようになった。歌謡曲や演歌で歌われる日本語では、一つの音に一文字があてられ、言うならばリズム感に欠くべったりとした印象を強く与える。それはロックを輸入音楽として受容してきた日本のコンテキストにとっては制限以外の何物でもない。英語のように短い単語に意味が凝縮されるのと違って、日本語を正確に発音しようとすれば音符が英語以上に必要になってしまうのだ(例えばyou一つをとってみても、英語でなら一音で済ませられるところが、日本語では「君」や「あなた」と二音以上必要になることになる)。それに対して、例えば大滝詠一桑田佳祐は、英語のように日本語を発音することで、日本語と音符の一対一対応を振りきろうと試みてきた。彼らの作詞が日本語で歌われるロックを英語のそれに近づけるという(あたかも明治期日本の涙ぐましい社会努力と相関するようないささか奇矯な)仕事を大幅に躍進させたことは疑いえないことであるが、他方でそうした詩作の努力は歌詞テクスト自体の意味を制限せざるをえない。桑田佳祐はその点開き直っていて、「ただの歌詞じゃねえかこんなもん」というエッセイを出したこともあったし、実際「夕方hold on me」(you’ve gotを掛けている)などの曲は歌詞で何かを伝えるというよりも、意味のない日本語を楽しく愉快にエイトビートに乗せて歌うことを目指したものであった。
だが、そうした「開き直り」のアイロニーは(桑田こそは日本の西洋世界の大衆文化に対する無遠慮なあこがれに常に冷笑的でありながらそれを換骨奪胎してみせたのだが)いつの間にか忘れられ、日本語を英語のように歌いその制約の中で何かしらの意味ある歌詞を書こうとする試みすらも放棄して、もはや英語そのものを歌うというコンテクストが醸成されてきた。僕はここで、日本人が英語で歌詞を書くことに対して目くじらを立てているわけでもなければ、日本語の美しさを主張するのでもない。そうではなくて、少なくとも現時点で英語を理解することのできる人々があまりに少ない日本のコンテクストにおいて、英語で歌うことの意味を問いたいのである。しかも上手いとは決して言えない発音で、英語の歌詞を口にするのであれば――多くの場合そうした人らはパンクロックあるいはメロコアと呼ばれる爆音中心の音楽に乗せてそれを歌うのであるから――、そもそもライブにおいて観客に歌詞の内容を伝える意思はさらさらないと断定しても大過はあるまい。
とはいえ、もちろん、そうした流れに棹さすようにして、いわゆる「日本語ロック」というものが出てきたことは間違いがない。日本語でロックするということと、ロック音楽のリズム感に日本語詩を乗せるということ、このジレンマを克服するようなアーティストが少ないながらも存在することは忘れられてはならない。しかし、僕が見る限り、今の日本のオルタナ・シーンにおいて、このような英米ロックのビート性と日本語の”もっちゃり感”の葛藤を調停しつつ、なおかつ詩的でありえるような音楽をつくろうとする試みがせざるをえない苦闘を、本当に理解している人らは少ないように感じられる。たとえ大学生が軽音サークルでやるにしても、この苦難に満ちた試みは理解されて良いはずである。彼らは自分らの感情を音楽に乗せて伝えるのだと息巻くが、それを「伝える」ということと自らの「マスターベーション」の間に存在する慄くべき深淵に気付いていない。大学生だけではない。アジカンくるり椎名林檎など「文学的」と呼ばれる歌詞の「雰囲気」だけを模倣し(しかもそうした人らの多くはJ-POPの貧相な歌詞を皮肉っているに違いないのだが、両者を差異付ける隔たりの何と小さな事か)、下手くそな発音で英語を歌い、爆音に歌声がかき消されるようなミキシングで演奏するプロのアーティストこそ罪深い。
日本のロック界は、おそらくB-DASHというパンクバンドが全身でシーンを皮肉った「ちょ」という曲を消化し切ることさえできずにいるのだ。「ちょ」は意味のない言葉、まるで英語的であるかに聞こえる無意味な音声によって構成された歌である。今のオルタナシーンのライブ演奏が、ほとんどすべて「ちょ」のアイロニーの射程に捉えられたままであるということ、そしてそのことにほとんど誰も気付いていそうもないということ、この悲劇に、僕は「日本語ロック」を聞く動機を失するのである。

夕方hold on me http://www.nicovideo.jp/watch/nm5262011