'12読書日記32冊目 『フッサール 心は世界にどうつながっているのか』門脇俊介

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

フッサール ~心は世界にどうつながっているのか (シリーズ・哲学のエッセンス)

110p
総計8811p
デリダ読む前にフッサールを、と思って入門書を見てみたら難しくてたじろいだ。が、フレーゲからフッサールという流れや、フッサール英米哲学との接点を模索していく観点が提示されていて、興味深い。具体的に言えば、それは、フレーゲ英米言語哲学という流れの合間にフッサールを挟み込んで、フッサールの特異性を捉えつつ、英米言語哲学さえ捉えそこねている問題へのアプローチを探ろうとするものである。伝統的な西洋形而上学では世界を表象する基本的な枠組みを、心のなかの観念に求めてきたが、フレーゲフッサールは「結局、観念って言っても言語表現なわけでしょ?」と開き直り、その言語表現(文)と真理・意味(意義)の関連を追及したという訳なのである。しかし、フレーゲフッサールは、前者が世界の表象のあり方として文中心主義に至るのに対して、後者は文というよりも信念-志向性の議論へと留まったという点において、分岐する(そして前者はそのまま英米言語哲学へと接続されていく)。本書によれば、フッサールは文中心主義を徹底しなかった代わりに「世界を表象することに内在する規範的な特性」を、志向性の観点から徹底的に問い詰める。志向性は、言語表現だけではなく知覚・想起・想像などの直観にまで拡張して考えられているらしく、確かに徹底している(普通、志向性はPという信念をQに帰属させるという操作を言うが、それを知覚にまで認めるというのは極端なように見えるが)。このあたりの話は門外漢であり、間主観性とか生活世界とか多少なりとも見聞きしたことのあるフッサール用語についての解説がほぼ無かったのには驚いたが、英米言語哲学に知見のある人なら読んでいて興味深いところではないだろうか。
僕としては、下記の引用箇所が勉強になった。

現象学的還元は、一般定立を切り捨てていく方法ではなく、むしろ、「世界」は定立された存在であることを最確認するための方法ではないだろうか。還元によって私たちは、世界の存在から現出・現れの領野へと連れ戻されるのではなく、「真理」によって解釈された存在としての世界へと引き戻される。世界の存在は失われるのではなく、フッサールの言葉を用いるなら、「理性的現実」として最解釈される。

意識による「構成」ということは、自然界にない動機付け・理由付けの連関である信念システムと真理の概念を通してのみ世界が現れるという、意識の自由について述べようとしていることになるだろう。この意味での自由は、真理への依存という非自由を伴っている限り、世界を意識の側から支配したり吸収したりするような、悪しき主観主義と断じて同じではない。