'12読書日記38冊目 『カントとヘーゲルの歴史哲学』榎本庸男

227p
総計10445p
カントの歴史哲学をヘーゲルとの比較の視座から考察したものとして意義深い。特に、カントの歴史哲学の実践的意義を強調したものとして重要であると思われる。管瓶に要約されているところを示しておこう。

ここで、繰り返しを恐れず、もう一度簡単にカントの歴史哲学の概略を示しておこう。まず歴史の観照的立場は、錯綜した歴史的事実を因果連関にもたらすことを可能にし、さらに目的論的想定によって方向づけをすることで経験的歴史の基礎となる。一方歴史の実践的立場は、現在から未来に向かって道徳的行為による最高善の実現を命じる。二つの立場は、観照的立場が実践的立場に対して実用的指針を与えることによって、また実践的立場が観照的立場のもとで歴史に従事する歴史家の生の関心を道徳的に導くことによって、互いに関係するのである。

ただ、やはり引っかかるのは、その「実践的」の意味が道徳実践的なものへと回収されている点であり、その根拠としてあげられるのが『人倫の形而上学』や『宗教学』といったそれ自体では歴史を主題的に扱っていない著作だということである。カントの歴史哲学を道徳実践的なものとして読む論者は、最高善の達成としての公民的社会(世界市民体制)の実現こそが人類に〈命じられた〉道徳的使命であるとする。だが、それについてこそ疑問が残る。そもそもカントの道徳法則(定言命法)はもともと個人の意志の規定根拠であり、人類全体を規定するなどということはない。また、そうした人類規模の定言命法が認められるにせよ、共和制・平和連盟という政治制度は経験的な概念でありそれは定言命法ア・プリオリ性に反する。歴史哲学を道徳実践的なものとして読もうとすれば、必然的にそれは永遠に実現せざる「理念」にすぎず、それはヘーゲルを持って完成されるということになるしかない。(ただ、本書では、ヘーゲルの立場にカントの乗り越えを認めつつ、そこにはカントのように道徳実践的な意義を持たないものとしてカントに軍配を上げている)。