'12読書日記53冊目 『境界と自由』木原淳

226p
総計14677p
カントの政治哲学について最近書かれた研究書。カントの『法論』は、その議論が複雑であり自由主義的でありながら絶対主義賛美をふくむ権威主義的な側面をも持つということもあって、これまで「老衰の産物」(ショーペンハウアー)などと切り捨てられることがままあった。そうした議論も1970年代後半からは少なくなってきたのだが*1、日本では未だそれほど研究書なども出版されていない。本書は、『法論』の順序通り、私法論から議論を出発し、公法の体系へと読みを進め、そうした中に共和主義と世界市民主義の重層的な秩序を見出そうとする。これまでの研究成果への言及も多く勉強になる。
議論の道筋は割りにシンプルだ。私法論の、特に所有権論にスポットを当て、カントが所有権の実体を土地に見出したことに着目し、土地の私的所有が主権国家による公的所有があってこそのものであるとカントが考えていたことを明らかにする。その上で、カントにおける主権のあり方が共和主義的な側面を持ち、その成因たる国民Volkは土地に結び付けられた概念であることを示し、主権の成立が所有権に優越するものであること、逆に言えば、土地抜きにしては共和主義的な政治体制は不可能であるということを証明しようとする。他方で筆者は、カントが国民が「世界市民として」「理性の公的使用」を行うことを要請していたことから、世界市民主義によって時に加熱するナショナリズムへの防波堤をなそうとしていたということをも主張する。
ただ、カントのパトリオティズムに対する理解はやや疑問である。筆者は『理論と実践』におけるカントのパトリオティズムの説明を引用する。

パトリオティッシュとは[…]国家におけるすべての人が、公共体は、母なる懐、国土は父なる大地であり、自分はそこから生まれ出、またそこに生まれ落ちており、さらにそれをかけがえのない担保のようなものとして子孫に残さなければならないとみなしているとき、しかもそのようにみなすのは、ただ各人の権利を共同意志の法によって保護するためだけなのであって、公共体や国土を何の制限もなしに恣意的に利用できるように支配する権限が自分に与えられているなどとはみなさないとき、そうした考え方をパトリオティッシュというのである。

そして、そこからカントがパトリオティズムのもとに普遍的市民ではなく国民Volk概念を使用し、さらに国民と国土、そして「「血」の紐帯による共同体観念」の結びつきを強調している、とする。つまり、カントは国民を国土への愛着を持つものとして規定していた、とするのである。「カントの場合、パトリオティズムは国土への密接な愛着を伴う心性として理解されており、その点で、それは修正消滅することのない具体性と土着性を兼ね備えている。」
しかし、こうした読解は(終章でハーバーマス憲法パトリオティズムを批判しているにもかかわらず)上記のカントの引用の重要な部分を全く無視して済ませている。カントはたしかにパトリオティズムの思考を、国土を「かけがえのない担保のようなもの」とみなしているが、他方でそうした愛着を持つのは「ただ各人の権利を共同意志の法によって保護するためだけ」だと言っているのである。それゆえ、筆者とは反対に、ここからハーバーマスのように自国の憲法が各人の権利を法律によって保護するからこそ愛着を持つのであり、そうでない憲法-法秩序には愛着を保つ必要がないというような読解をすることも可能である。
また、次のような点に関しても相当な疑問を持たざるをえない。筆者はカントが「理性の私的使用」を制限することにもやぶさかではなく、「国家の起源」を探索するような議論は禁じられるべきだとする悪名高い議論を引いて、「法的・政治的実践の場において、純粋に普遍化されたコミュニケーションモデルを徹底させることの断念として理解しうる」と述べる。ここで筆者が念頭に置く「普遍化されたコミュニケーションモデル」とはハーバーマスのそれであるが、筆者によれば、ハーバーマスの普遍的・理性的なコミュニケーションは「あらゆるタブーを排した対話空間とは、既存の一切の前提を疑いの対象とし、掘り崩しうるような無限後退的な問いを許容する空間であるはずだ」という。このハーバーマス批判自体、彼の『コミュニケーション的行為の理論』の誤読かあるいは未読にすぎないと思われるが、一層問題があると思われるのは、次のような言明である。

歴史的・政治的諸条件に依存することのない「理性的な対話空間」を求めるハバーマスが、歴史認識に関わる論争を執拗に巻き起こし、それにこだわり続けたのは決して偶然の現象ではなく、こうした対話観からは必然的に生じる帰結といってよい。一切のタブーなき論争においては、当事者たちは互いに論敵の依拠する歴史的解釈や文脈を掘り崩そうとし、これを論争主題とする誘惑に駆られる。この結果、「普遍的」な対話空間においては、過去の歴史解釈問題がつねに浮上し、決着の付かない論争が繰り広げられるが、思想と言論の自由が保障される社会において、この手の論争に最終的な決着を付けることはできない。このことは〔…〕(言葉の本来の意味での)「実践的」な対話からは程遠い。

ここにおいて筆者のカント理解を媒介にした政治観が、あくまで「実践的」なものに歪曲されてしまう。ここで筆者が言う「実践的」はカント的な意味で理解されては絶対にならない。それはプラグマティズム的な意味での「実践」であり、「眼前の案件への決定を、限られた時間内に下すことを求められる実践的対話」にほかならない。ここでは何がしか「決定」を下すことのみが言葉の本来の意味での「政治的実践」だと捉えられている。しかし、過去の歴史認識についての議論がそれ自体でこれからの政策を左右することも当然ありえるし(例えば、日韓問題でもそうであろうし、また在日の人々らへの権限付与などの議論もそうだ)、筆者が本書で提起した「領域」、「国境」の問題についても、歴史的な議論を踏まえた上でなされるべきことは明らかである。さらに言えば、どのような人々を「国民」として認めるのか、ということについても歴史解釈の問題はついて回る。国民は歴史的文脈に拘束されている、と述べつつ、こうした議論を展開するのは端的に矛盾していると言わざるをえない。
また、筆者は、カントが「国家の起源」への詮索を禁じただけでなく、ある種の革命的言説をも禁じたということを正当化しようとするばかりに、「表現の自由」への権利は身体の権利の保護に比べれば相対的なものにとどまると述べ、後者がなければ共和的統治への参加も不可能なのだから、と述べている。だが、共和主義的な政治――それは必ずや公共的な議論をも内包するはずだが――において「表現の自由」が制約されているとするなら、そこで正義の実現が、つまりカントが言うところの普遍的意志の統一が可能であるはずがあろうか。

*1:ドイツのKerstingなどの議論はその嚆矢である。"Wohlgeordnete Freiheit"の邦訳が近々出るということを小耳に挟んだ。Kerstingよりも新しい人でフランクフルト学派に近しいインゲボルグ・マウスの著作『啓蒙の民主制理論』もカントの政治哲学をラディカルに読解することで、共和主義的な側面を浮き立たせようとしている