'12読書日記85冊目 『実存から実存者へ』レヴィナス

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)

実存から実存者へ (ちくま学芸文庫)

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

実存から実存者へ (講談社学術文庫)

238p
総計24567p
レヴィナス。するすると読める。例えばカントのようにうむむむと悩んだりしない。文章がわかりやすい。が、言っていることは捉えがたい。モチーフはハイデガーの転倒なのだろう。疲労や倦怠の分析も興味深かったのだが、やはり自我-自己-時間の関係を分析したところは、全部ラインマーカーを引きたくなるくらいぐっとくる。
自我はつねに自己に緊縛されている。この「二人であることの孤独」、容赦ないまでに自我が自己に対して存在することの責任。言い換えれば、自己という存在から自我という存在者が立ち上がり、そこにおいて自由はあるかに見える。だが、その自由は軽やかなものではさらさらなく、つねに自己に緊縛されてあるという意味で重く責任が課せられているのだ。自我にとって自らがそこから現れでてくる自己は、自我とは異なるものという意味で他性を帯びている。それだから、自我は、自らの発生源である存在(「ある」)に、自ら望みもしないうちにそこから立ちあらわれされるところの自己に、常に対抗し支配しようとしながら繋ぎ止められ、責任を追うのである。簡明に言えば、自我(主体)は、非-主体的(つまり受動的)に出来させられる自己という存在そのものに、なぜか責任を持つのである。自らが選択したのではないものに、不可避に負わされる責任。それが主体を捉えて離さないのだ。
では、この繋縛されて逃れ切れないものから逃れ、自由になるにはどうすればいいのか。それは自己-自我ではない他者によって、他者の愛撫の瞬間によってもたらされるとレヴィナスはいう。このあたりは非常に宗教的な色合いがする。〈未来〉から〈現在〉の存在の労苦が償われねばならないのだ。レヴィナスが「経済の時間」という交換と代償の様態は、実のところ救済ではありえない。現在なされた労苦が、未来において報われるということはないのだ。なぜか。仮に今の労働によって、未来に報酬が得られたとしても、それは〈今〉の労苦を償うことはない。

労苦は償いえない。人類の幸福が個人の不幸を正当化しないように、未来の報酬は現在の労苦を汲み尽くせはしない。労苦を償いうるような正義は存在しないのだ。労苦が償われるためには労苦の瞬間に立ち戻ることができるか、この瞬間を蘇らせることができるかしなければならない。希望を抱くとはしたがって、償いえないものの償いを希望すること、したがって〈現在〉のために希望することである。

〈私〉-主体-自我が、無名の存在-自己の中から、瞬間ごとに、〈現在〉ごとに立ちあらわれてくる、この労苦を償うことができる未来は、ほとんどメシア的なものに思える。ベンヤミンの歴史哲学テーゼを想起させもするこのロジックは、本書ではまだ展望されただけのようだ。
西谷修さんの解説が充実している(そのほとんどは『不死のワンダーランド』でも読める)。