'12読書日記86冊目 『大阪――大都市は国家を超えるか』砂原庸介

大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)

大阪―大都市は国家を超えるか (中公新書)

254p
総計24821p
橋下徹の出現以来、「大阪」という都市には良かれ悪しかれ注目が集まってきた。"ハシズム"現象が取り沙汰されたり、あるいは地方政党である維新の会が国政選挙へ打って出たり(その結果は16日に分かることになる)、また雑誌『現代思想』にも大阪特集が組まれたり。そんな中、中公新書から出版された『大阪――大都市は国家を超えるか』は、政治学の立場から、大阪で今何が起こっているのか、あるいは首都東京ではない一大都市としての大阪が国家との関係の中でどのような変遷を被ってきたのか、それを冷静に分析する。橋下徹についての本というより、大都市をめぐる日本政治の考察といったほうが良いだろう。それは国家と都市のあり方をめぐる堅実な考察である。
「大阪」という都市制度が明治維新以後に出来上がり、戦前戦中を経て、戦後にまでどのような政治的対立の中に置かれてきたのか、都市行政と政治家の関係はどうであったのかというような歴史的分析が綿密になされている。こうした分析から見えてくるのは、橋下徹がやろうとしている「大阪都構想」というものは、決して目新しいものではないということである。中央集権国家に対する都市自治の要求、それを達成するための「大阪」の拡張・再編。実際、70年代には地方都市に「改革派」をうたう知事が姿を見せ始めるのであり、彼らは地方分権を掲げて国家に対してよりいっそうの権力拡大を求めたのだった。「都市をつくる」という野望に対して、しかし、都市行政のトップは行政官僚や地方議会との折衝に勤しまなくてはならなかった。「改革派」の知事らはその折衝に失敗してきたのである。しかし、自民党体制が崩壊し、また同時にその政治基盤である農村部への利益再配分もままならなくなってきたということもあり、無党派の知事であっても都市において政治的求心力を強めることが可能であり、今のところそれに最も成功しているのが橋下徹なのである。
大阪についてさほどの興味がない人であっても、本書の内容は興味深く読めるだろう。というのも、東京以外の地方都市に住む者にとって、国家と都市の関係はいつも厄介で悩ましい問題であったからだ。大阪という都市の政治史を通じて語られるのは、日本政治史の(言わば)裏面・陰の側面である。国家-政治の地方への影響は派生的なものであって、見えにくいものだったが、本書はそれを見事に描いて見せている。また、大阪に関心はなくとも、橋下徹という存在がなにか気になる人にとっても有益だろう。橋下府政の負の側面への分析はあまりなくて批判的であるような向きには(つまり僕には)やや不満が残るが、それでも彼が掲げる都構想と新自由主義的プランがトレードオフの関係にあることが指摘されたのは、重要である。つまり、橋下の政治においては「都市官僚制の論理」と「納税者の論理」という本来相容れないような2つの要請が入り交じっているというのである。一方で都構想を通じた大阪の発展には政治家の強権的なリーダーシップのもとに都市を作り替え、経済的な発展を導こうとしつつも(そのためには権力や金を集中させねばならない)、他方で選挙やメディアでの橋下の言説に見られるように、有権者からの支持を自負し自分の政治が彼らのためにあるのだと正統性を取り付け、行政を企業体としてみなし、不採算部門を切り捨てて行政を縮小化していこうとする方向性がある。より簡便に言い換えれば、都市行政への集権化と、納税者の税金をもぎ取る量を少なくし、財政収支のバランスを取ろうとする縮小化が混在しているのだ。後者の納税者の論理からは、大都市からその周辺地域への機能移譲という分権化の方向性も出てくる。しかし、高度経済成長が終わり、都市の発展が用いられる財と、その周辺の自治体が用いる財の量が限られている以上、両者の衝突は防ぎきれないと筆者は指摘する。こうした視点からもう一度「大阪都構想」という橋下の政治的主張を検討すれば、その正負の面が明らかになるだろう。
本書を読んで疑問に感じたのは、第1に都市を「企業体」として捉えることが理想的なことなのかどうかということである。つまり、「納税者の論理」から都市行政を効率化するために、企業の論理がそこに導入され(橋下の一連の発言「企業だったら即〜〜ですよ!」を想起せよ)、不採算部門が切り捨てられていくという事態である。こうした発想は、国家を企業体として捉える見方の焼きまわしではあるが、つまるところ、こうしたアレゴリーはすでに一定のバイアスを持ったものではないだろうか。確かに行政の効率化は必要だろうし、労働組合と癒着した府・市の行政にも問題はあるだろう。しかし、たとえば都市を企業としてみなすことは、社会保障や採算の上がらない文化財をも不効率で不必要なものとして切り捨てられていくことを意味しないだろうか。企業とは違った政治的余剰の意味を持つものとして国家や都市を捉える見方のほうが適切ではないのか。
第2に、橋下の登場が大阪の政治史のなかで位置づけられ、それが自民党の政治基盤の崩壊に起因するものであることが分析されたとき、彼の政治的手法、とくにファシスト的とも称されるような手法をも分析される価値があるのではないか。つまり、そこにはポピュリズムの発生の分析の手がかりとなるようなものが見いだせるのではないか。そしてそれは「都市官僚制の論理」と「納税者の論理」というトレードオフを両立させようとする玉虫色の主張とどういう関係にあるのか。twitterで砂原(@sunaharay)さんは以下のように仰っていた。

橋下氏の手法には、彼自身の個性に起因するところが少なくないとしても、「企業体」としての運営を求める大阪の都市行政がある意味で要請しているような部分もあり、それは彼でなくても同じようなことが起きる可能性はあると思います。例えば關一[1920年代の敏腕と称された大阪市長]にも同じような部分がないとはいえないでしょう。 少子高齢化のこの環境において、さらなる大都市を目指すような主張が問題だ、という議論はありうると思いますが、それも橋下氏だけの問題ではなく、大阪という都市が抱える問題ではないでしょうか。大阪として向かい合わなければいけない問題を、橋下氏の政治手法に還元する議論は、結局のところ問題から目をそらしているに過ぎないように思います。

確かにこのご指摘はもっともであろう。世の中の多くの論者は橋下の政治的手法のみをあげつらっているからだ。しかし、僕としては、橋下の政治的主張と、その手法と、それを可能にするポピュリズム的土台の発生をも絡めた議論もありえるし、それを読んでみたいと思ったのである(もとより過大な要求ではあるけれど)。さらに言えば、橋下の右派的なイデオロギーは、こうした都市の発展を目指す論理、また納税者への利益配分と行政の効率化を目指す論理とどういう関係があるのか、それは必然的な結びつきであるのかどうか。現在進行中の事柄を批判的に考察するために考えるべきことがまだまだあるのだと気付かされる本であった。

現代思想2012年5月号 特集=大阪

現代思想2012年5月号 特集=大阪