'13読書日記6冊目 『社会的なもののために』市野川容孝・宇城輝人編

社会的なもののために

社会的なもののために

365p
総計3553p
本書には、64-67年生まれの研究者たち(社会学、社会思想史、政治思想史、社会運動論)を中心になされた「社会的なもの」についての討論が収録されている(1-5章は2009年、6章は2011年の討論)。「社会的なもの」とは何か。それに一言で答えるのは大変難しい。本書を読んでもあまり明快な答えは見えてこず、というよりむしろ討論の多くは「社会的なもの」とは何であるか、何でありうるかをめぐって行われているのである。
僕なりに議論されていた「社会的なもの」の共通項を見出してみよう。発端となるのは、19世紀、資本主義社会の成熟の過程で見出された、いわゆる「社会問題」とそれに対応すべくなされた「社会政策」の根底に存在する価値規範である。「根底に存在する価値規範」と言ったのは、「社会的なもの」が価値として存在しなければ、貧困や格差、疎外などといった問題は、問題として発見されなかったであろうし、それに対応すべく政策が打たれることもなかっただろうからだ。そこで問題として発見されたものの多くは資本制の成熟の負の側面に由来する。それゆえ、「社会的なもの」の概念は、多くの場合、マルクス主義と概念のフレームワークを共有しもするだろう。本源的蓄積による農村からの労働者の離脱、離脱した労働者たちの都市への大量流入、それにともなう都市問題(人口問題)、搾取による労働者の貧困、分断と疎外、こういった問題を発見することを「社会的なもの」のフレームワークは可能にする。こうした問題を裏返してみれば、そこにある価値規範の内実も見えてくるだろう。平等、自律、連帯、安全=生存、こうしたものを「社会的なもの」という価値規範は含有していると言える。しかし、本書の討論に参加した人らは、社会主義共産主義に与するわけではない。確かに社会的所有についての議論もなされてはいるが、資本主義そのものを揚棄しようとする訳ではない。そうした(通俗的な)マルクス主義を退けつつ(無視しつつ?)、資本主義社会のなかで「社会的なもの」をどう指し示し、どう再生し、どう理念として位置づけるのか、これらが問われているのだ。
参照点というか対立項として挙げられるのは、ネオリベラリズムである。ネオリベラリズムの統治、あるいはその源流となったオルドー自由主義の統治とは、こうした「社会的なもの」に配慮せずに、あるいはそれを抹消しつつ、行われるものであるとされる。しかし、反ネオリベ的なものを一挙に集めたものが「社会的なもの」かといえば、そういうわけではない。本書で繰り返し確認されるのは、ネオリベ的統治と「社会的なもの」が一致する場合さえあるという事態である(例えば、政府ではなく各コミュニティに力を付けさせて連帯・自律を実現するような政策)。近代の重要な理念である「自由」を捨て去らないで、しかし、それでもなお「社会的なもの」をネオリベラリズムの統治が現実的な支配を強めていく中でどう再生-再創造できるのか。
はっきり言えば、本書の討論は読めば読むほど錯綜していき、迷走している感じさえ与えるものだ。「社会的なもの」に一義的な定義が与えられておらず、それ自体が論争的な概念であり、ともすればバズワードになってしまいそうな危うさを持ったものだとも言える。もっと分節化したほうが良いのではないか、とさえ思える。例えば、何度か思ったのは、「社会的なもの」などとわざわざ言わなくても、「平等」あるいは「人権」で良いのではないか、英米の規範理論の蓄積を利用すればいいのではないか、ということだ。しかし、それは「社会的なもの」という概念において論じられようとしていることの大事な反面を見逃してしまうことになるのだろう。というのも、平等や人権といったトピックから要請されるのは国家、それも福祉国家の次元であり、「社会的なもの」において論じられる事柄の中には、国家から分離して存在しようとするヘーゲル的な意味での社会(市場)も含まれるからだ。国家/社会という対立軸を取れば、「社会的なもの」は各人の自立的な連帯を可能にする中間集団の議論へともつながっていくし、その成否が問われねばならないことになる。あるいは、人権や平等という議論からは、疎外の状況への視座は出てきにくいだろう。さらに、「社会的なもの」の勃興が都市問題と軛を一にしていたことを想起すれば、そこには国家/都市、都市/地方という軸をも設定せざるをえない。
このように本書では、はるかに見通しが悪く、概念的に混乱している印象さえ持つ議論が繰り出されている。基調講演→討論という6章立ての構成になっており、それぞれ、ネオリベラリズムと社会的なもの、労働と社会的なもの、社会的なものと境界の問題、社会的なものとデモクラシー、日本における社会的なもの、3/11以後と社会的なもの、という風に討論のトピックは区切られてはいる。しかし、それぞれに重複する議論が複雑に絡み合っており、さらに、現代的なトピックと思想史・社会史的なトピックが交錯してもいる。読者は明らかにキャパオーバーを強いられる。少なくとも市野川先生の『社会』を読んでいなければついていけない感じがする。しかし、にもかかわらず、それぞれの論者の議論には触発されるものがあり(とりわけ僕は歴史的な議論に喚起されるものが多かった)、論者たちの共有する次の前提も僕には真摯に思える。つまり、こうした複雑な「社会的なもの」概念をめぐる議論をする意味は何か、それは「変革に向けた政治的理念」を「社会的なもの」によって創造ないし復活できないか、という前提である。市野川先生が、日本には政治的な理念として「自由」と「民主」しかないのではないか、そしてそれらは使い古され機能不全に陥っているのではないか、あるいは現実の処方箋になりえていないのではないか、と「はじめに」で述べていることは重要であるように思われるのだ。
しかし、本書の討論が、歴史のなかに「社会的なもの」を位置づけ、そこから現代を眺めようとするものだとしても、あるいは、忘却されてしまった「社会的なもの」を記憶によみがえらせるものだとしても、やはりそこに規範理論的な問いかけがあったほうが良い。つまり、なぜ「社会的なもの」が必要なのか、より腑分けして言えば、なぜ平等が重要なのか、なぜ連帯しなければいけないのか、なぜ自律に価値があるのかという問いかけとそれへの答えがなければ、ネオリベ的な、あるいは安藤馨的な言説に対して、説得力を持たないのではないだろうか。確かに、現代の諸問題を発見し、それを変革するためにこそ、その来歴としての歴史――社会的なものが忘却されていく歴史――を視野に入れておくこと、それに習熟しておくこと、これは必要最低限のことであろう。このことは強調してもしすぎることはないし、規範理論の著作の中では往々にして無視-忘却されてしまうような気がする。しかし、それでもやはり、「どうして社会的なものが必要なの?」「どうしてネオリベじゃだめなの?」という不躾な問いかけに向き合って、それに答えようとしなければならないだろうと思う。もちろん、それは僕が考えていけば良いということではあるのですが・・・。
社会 (思考のフロンティア)

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