'13読書日記23冊目 "Reform nach Prinzipien: Untersuchungen zur politischen Theorie Immanuel Kants" Claudia Langer

Reform nach Prinzipien. Untersuchungen zur politischen Theorie Immanuel Kants

Reform nach Prinzipien. Untersuchungen zur politischen Theorie Immanuel Kants

208p

ラインハルト・コゼレックのもとで書かれた博士論文(1986)。Reinhardt Brandt, Wolfgang Kersting, Ingeborg Maussらとともに、カントの政治哲学・法哲学(とりわけ『人倫の形而上学・法論』)のポテンシャルを可能な限り肯定的に読解してみせた人の一人だと言える。それまでショーペンハウアーがカントの『法論』を老衰の産物で読むに値しないと言って以来、カントの法哲学にはまともな注目が集まらなかったし、注目されてもイデオロギーがかった読み方*1をされて残念な扱いになっていた。それが80年代中盤くらいにかけてから、ようやくまともに研究されるようになってきて、英米圏でも近頃はわりかし取り上げられるようになってきている。
本書のキーワードはタイトルそのもの、つまり「原理にしたがった改革」である。ランガーはカントの根源的契約という特異な法の理性理念から導き出される改革のモーメントに着目する。法の理念から演繹されるのは、すべての人の意志の結合が法の根源になければその法は普遍性を持たない、つまり妥当性を持たないということだ。そしてそのすべての人の意志の結合(つまり一般意志だが、カントはそれを根源的契約と呼ぶ*2が可能になるのは、ただ共和制においてのみにほかならない。それゆえ、理性法の観点から演繹されるのは、すべての国家は共和制にならなければならない、そうしなければ法の妥当性を欠いてしまう、ということである。したがって、さらにそこから演繹されるのは、もし国家が共和制でないのであれば、国家の統治者は共和制を実現するために尽力しなければならない、ということである。そこで効いてくるのが、根源的契約という「原理」である。つまり、根源的契約という原理、すべての人が賛成することができるという原理を満たすように/満たすために改革をなすということが統治者に課せられるのである。つまりカントのプログラムでは、共和制ではない国家の統治者、つまり専制君主は、共和制へ向けて改革を進めることで自己揚棄せざるをえなくなるのだ。その際に、改革が「原理にしたがった」ものでなければならない、つまり自分勝手に恣意的に改革してはならない、ということも忘れてはならない。
ランガーの研究で特徴的なのは、第1に、それがコゼレックのもとで書かれたということもあるが、こうしたカントの「原理に従った改革」という考えを、1800年代初頭のプロイセンの法改革の推進者たちのなかに見出そうとするということである。ランガーはコゼレックの"Preußen zwischen Reform und Revolution"(1967)に大幅に依拠しつつ、法改革の推進者たちもまた(その企画は頓挫したとはいえ)「原理に従った改革」を掲げて、プロイセンの自由化を、そして最終目標としての共和制を目指していた。カントの議論を歴史的なコンテクストに落としこんで、その影響史をみようというのだ。こうした研究はたとえばKerstingの『法論』一本に絞って精密な解釈を展開するのと比べて、多少議論は雑になりはするが、思想史のダイナミズムを感じることができる。ランガーの研究の特徴の第2の点は、それが歴史哲学的な関心からカントの政治哲学を読み解こうとするものであるということである。まず第1で歴史哲学書の大筋の構成がまとめられ、それをもとに法哲学が「改革」をキーワードにして読解される(ただ、歴史哲学書は実はそれほど効いていないし、歴史哲学書の政治思想が問題となっているわけでもない)。第3に、ケアスティングと違って、ランガーはカントの所有権論にも「改革」のモーメントを見出し、社会正義的あるいはロールズ的平等の改革への志向が可能であると評価する*3
Kerstingにせよ、Langerにせよ、もっぱら上からのリベラルな改革に注目しているだけで、そのあたりがやや不満が残るところではある。不満ついでにもうちょっと言えば、ランガーの本は確かに充実した歴史的コンテクストを紹介し、議論に奥行きをもたせることに成功しているが、方法論的な問題として、たとえカントの影響が後の法改革の推進者たちに読み取れたとしても、それはカント読解の正当性には効いてこない。それは結局、カントの影響史にすぎないのであって、カントの言説の意味を理解するためには、カントの後の世代ではなくカントより以前か同時代の人らの言説空間に目を向けなければ意味がない。と、不満はたらたらあるけれど、非常に有意義な研究書でプロイセンの歴史にも多少詳しくなる。なにより「改革」をここまでちゃんと打ち出しているのが大胆で面白い。
で、僕としては他にランガーたん、なにか書いていないのかと調べてみたのだが、全然見当たらない(ケアスティングの書評が一本あるくらい)。じゃあ今何してんねんと思ってググること10分、どうやら大学で職を得ているのではなく、高等学校の校長先生になっているみたいだ*4。いろんな生き方があるなあ。もっと研究を続けて欲しかった、という感じもしないでもないけれど。会ってみたいな。

*1:とりわけ抵抗権・革命権の否定から、専制君主礼賛のイデオロギーを読み取ったり、あるいは所有権理論の難解さから誤読してグーツヘルシャフトの擁護者あるいはブルジョワの擁護者として想定したり。

*2:が、根源的「契約」と言っても、国家の起源に歴史的な契約があったとか、あるいは契約論にありがちな現在の国家を正当化するものとしてあるのではない。根源的契約とはすべての人々の意志の同一結合というおよそ実現するには相当の障壁がありえる理性の理念である

*3:このへんはKristian Kühl, "Eigentumsordnung als Freiheitsordnung"を下敷きにしている

*4:http://www.unibielefeld.de/philosophie/querdenken_template/abteilung/lehrende/brandhorst.html