'13読書日記28冊目 『法の究極に在るもの』尾高朝雄

法の窮極に在るもの

法の窮極に在るもの

285p
昭和二十一年初版、昭和三十年新版。安藤馨さんの功利主義本に取り上げられていたのを見て、この本を読もうと思った。法の究極に在るもの。この表現だけで、分かる人には分かるだろうが、構成的権力(憲法制定権力)の問題、あるいは例外状況における主権の問題が論じられている。法を生み出すあるいは規制するのは理念である。しかしその理念は人間を動かし、法に結実させるような力を持った現実から離れては、法を生み出すことはできない。となれば、法の究極に在るものはこの現実、つまり政治である。自然法と実体法の関係を見たあと、法秩序そのものを作り出す力である憲法制定権力、さらには法秩序そのものを停止させる力としての革命権と国家緊急権(例外状況における主権の決断)の問題に踏み込んでいく。
筆者は、ケルゼンの弟子であったようで、こうした例外状況における政治的なるものを「法の究極に在るもの」として提示するシュミットに反論しようとする。法を生み出し、また法を破る力としての例外状況における政治的なもの。筆者は、この政治的なものを神学化して捉えようとはしない。むしろ政治的なものを現象学的に捉えていこうとする。法を創造し、あるいは破壊する政治的なものは、そうはいって人間の行動にすぎない。人間の行動は目的・理念・意味によって方向づけられている。したがって政治的なものも、現実社会における目的・理念・意味によって規定されている。国家においてこうした政治は、理念や意味などを掲げて民衆を指導する人々と、指導される人々の間に一連の関係――指導・統制・支配・操縦――において捉えられるものである。政治のなかで、行為規範、共生規範、組織規範が確立されていけば、その複合体が法となる。こうして考えれば、政治は理念(法)と事実(生活世界の意識)を媒介する運動として捉えられる。民衆を首尾よく指導・統制・支配・操縦するためには、政治はどんな理念を掲げてもいいというわけではない。

政治、特に国家の政治が理念によって国民の精神を統合し、国民の団結によって共同体の統一を確保する力を発揮するのは、その政治がその国・その時代の具体状況に応じて社会生活の諸目的を調和せしめ、国民公共の福祉を増進する適格性を有するからである。

したがって、

政治の矩は目的の調和であり、公共の福祉であり、正しい秩序である。それは、ほかならぬ法の理念である。政治に正しい方向を与えるものは、かような法の理念である。法の究極に在るものを求めて政治に到達したこれまでの考察は、ここに更に政治の究極に在るものを求めて、ふたたび法の理念に立ち戻ってきたのである。

法は政治によって作られ、政治によって動かされ、ときには政治によって破られる。けれども、法は決して単なる政治の傀儡ではない。法は、更に一層高い立場から、政治が政治の矩にかなうように法を作り、法を動かすことを監視している。特に、政治が法を破ろうとする場合には、それが社会の諸目的の調和と公共の福祉の増進とのために真にやむを得ない措置であるか否かを、最も厳重に監視する。そこに、政治の恣意によって左右することを許さない法の自主性がある。そうして、法の自主性の存するところには、法学の自主性もまた厳として存するはずでなければならない。

筆者の意気込み、とりわけ第二次世界大戦を許してしまった法学者へ込められていそうな憤りが溢れてくるのがわかるが、しかしその監視の規準はすでに例外状況を許容している。法が政治を監視しなければならない、という言葉は、すでに脆い。