'14読書日記44冊目 『経済的思考の転回:世紀転換期の統治と科学をめぐる知の系譜』桑田学

院の先輩にご恵投していただきました。博論がもとになっています。経済思想・政治思想・科学思想と様々な分野を横断しつつ、まさに「知の系譜」を紐解いていく本書は、様々な関心から興味深く読めることと思います。
メインのテーマはオットー・ノイラート(1882-1945)という経済学者です。ノイラートの一般的なイメージとしてはウィーン学団に属する論理実証主義者であるとか、社会主義計算論争のなかでミーゼスやハイエクから批判された人、社会工学主義者で計画経済を主唱した人物といったところが関の山なのだと思いますが、本書はその後者の通俗的理解を覆そうと試みています。ノイラートは多種多様な相貌を持つ人なのですが、彼の政治経済思想を理解する観点として、本書は経済的統治という観点を提示します。経済という語はそもそもアリストテレス以来、オイコスの支配、つまりオイコノミアとして統治の側面を有してきました。18世紀のスミスらの政治経済学もこの統治という観点を未だ強く持っていたと思います。しかし、その後、経済学が自立した学問領域として捉えられるようになってからは、統治の側面が切り離されていく傾向がありました。しかし、ノイラートは、そしてノイラートと対立する立場にあったハイエクは、この統治という観点から再び経済を考察し始めていました。本書によれば、社会主義計算論争の後半、ハイエクが参入してからはこの統治の側面へと議論の位相がずらされるようになったのです。つまり、社会主義計算論争は当初ミーゼスやランゲ、ラーナーなどによって、社会主義体制において貨幣価格による経済計算が可能かどうかといういう点で争われていましたが、ハイエクは人間の知性の限界を指摘し、それを直視しない社会工学が人間の自由を抑圧するとして批判したのです。ハイエクの議論はかなり強力で、彼以降、計画経済と言えば市民的自由の抑圧、ひいては全体主義につながるというようなイメージが広がっていったように思われます。しかし、ハイエクによって批判されたノイラートは、計画経済という概念をこうしたイメージから分離して考えていたようです。
ノイラートの経済思想的出発点は、既存の経済学が依拠する価格メカニズムや市場の合理性といった枠組みでは捉えきれない事象――例えば経済と民主主義、市場の外部の問題、科学的知識と計画の関係――をどう考えるかという問題でした。本書の醍醐味の1つをなすのは、「新古典派オーストリア学派」というような19世紀末の経済史の整理を覆し、いまでは忘れ去られてしまった、しかし現在的観点から見ても示唆に富む豊かな議論を掘り返してみせるところにあるでしょう。その1つが、第一章を使って詳しく論じられている、社会エネルギー論という考え方です。ノイラートの思想的素地になったものとして、この社会エネルギー論が取り上げられます。非常にざっくりと言えば、それは旧来の新古典派の経済学が、科学の分野では時代遅れになった古典力学にモデルを借りて議論していることを批判する形で登場しました。古典力学から熱力学へ、というのは科学史的には重要なモーメントですが、その重要な含意の1つとして、時間的な不可逆性を認識の中に取り入れたことが挙げられます。一時的に均衡することはありえても、熱エネルギーはつねに動態的な状態にあり、均衡は崩壊の一途を辿るしかないのです。社会エネルギー論は、ただこうした熱力学観を経済思想の中に取り入れようとしただけではありません。むしろ、認識枠組みという理論的平面を超えて、実際に自然・エネルギー資源が消費され消尽されていく過程を経済学的に考察しようとしたのです。しかも、自然資源は単に貨幣価格に還元されてしまうのであれば自然資源自体の崩壊・消失は考察することにはならない、という点まで踏み込んでいました。これが貨幣価格に対置される自然価格と呼ばれるものですが、この概念的道具を用いて経済的統治を考察しようとしたのがノイラートにほかならないのです。「自然の諸力をいかに社会内部に取り込み、人間の生存と繁栄に資するよう合理的に統御できるのかという点を、科学的な経済の統治の根本問題として見なした」人たちが、世紀転換期には存在したのでした。ノイラートは、経済学の中心的概念である富を、貨幣とは異なる形で具体的に規定しました。それらは、生活の質、生活の条件、生活の秩序、生活の基礎(外的条件)という4つの変数に制約されるものであり、貨幣という単一基準では評価できないものでした。ミーゼスらはこうしたノイラートの議論に反応する形で社会主義計算論争をはじめていき、ハイエクによっていわば経済計算から経済的統治への認識論的転回が論争にもたらされたのでした。
ノイラートの議論が、現在から見て興味深いのは、一つには貨幣的な単一基準を拒否することによって、自然界との物質代謝に組み込まれた経済過程を捉えようとする視点です。資源やエネルギーは代謝という観点からは通時的に分配されるよりほかにないものですが、市場経済のもとではそれが共時的な需要としてしか理解されず、当然考察されるべき未来世代のニーズはその枠組に入ってきません。ノイラートの議論は、こうした世代間の分配に応じるものとして考察されています。ノイラートにとって、経済問題の本質はpoklycentricなものになります。たとえば、労働時間や労働の質を規定する経済組織のあり方、自然資源の合理的利用、複数の資源のあいだの関係、生態系へのダメージ、未来世代の福利といった様々なものが考慮される要素となるのです。こうした要素を比較衡量するためには、様々な分野の科学者の複合的な知が必要になります。ただし、ノイラートは戯画化されたテクノクラートのようなものを、退けます。科学者や技術者はどのような計画があり得るかをていじするだけで、その計画の採用の最終決定権は与えられていません。「専門化が可能な解決策を提示するだけでなく、決定も行うよう求められれば、かれらの科学的な慣習を歪める」ことになるからです。このことは、ノイラートの有名な比喩に明らかです。

遠く離れた海上で、円型から魚型へとその不格好な形状を変えていく船の船乗りたちを想像してみよ。かれらは旧い構造の梁に加え浮遊する木材を利用しながら、船の船組や船体を改良してゆく。しかし船をドックに戻してゼロから出発するということはできない。彼らは作業のあいだも旧い構造の中にとどまり、強風とすさまじい波に対処する。船を改良しつつ危険な漏出が起こらないよう注意する。新しい船は旧い船から少しずつ生まれてくる。船はまだ建設の途上にあるが、船乗りたちはすでに新たな構造について考えをめぐらしている。つねにお互いがそれに合意しているわけではないが。目下、予測できない仕方で全事態が進んでいくだろう。これがわれわれの運命なのである。

ここには、全てを見渡せる神の視点が拒否されていることは明らかです。社会改革は「ラプラスの魔」を想定することではなく、「諸科学のオーケストレーション」によってならないのです。こうした知の協働によって、人間の活動と自然界の関係を含めた統治の認識論的条件が可能になるのです。このことは、ハイエク社会工学を批判し、市場の自由に任せたほうが各人の自由が保障されうることを説いたことと並行しています。しかし、ノイラートはハイエクに対して、こう応じることになります。つまり、ハイエクは経済計画を作成するよりも市場に任せたほうが各人の自由が保障されるし、それぞれの知の不完全性のなかからよりよいものが出てくると想定するが、じつはこれは自由の多元性を保証しているように見えて、経済的な価値観によって全面的に画一化することにほかならないのではないか、というのです。それに対して、ノイラートは「経済的寛容」こそが重要であると主張します。例えば、市場経済においては健常者と障害者の労働では、前者のほうが生産力などによって優位な価値を持つことになり、後者は社会的に排除されてしまいかねません。しかし経済的寛容の原理からは、後者の尊厳に適合した制度がいかなるものかが考察されるのです。ここにおいて、経済は市場に決定が任されるのではなく、民主主義的統治の実践領域として規定されることになります。
20世紀の初頭に現れ、そしていまではすっかり忘れられてしまったノイラートとその周囲の議論を掘り返すことによって、現在に対する批判的想像力を喚起することに、本書は成功しているでしょう。ハイエクにとどまらずオルド自由主義の統治性とノイラートの統治性を対比して考えてみれば、この系譜学的試みのパフォーマティブな効果は明らかでしょう。政治・経済・科学といった分野を横断して書かれた思想史として、本書は非常に大きな刺激を与えてくれるように思います。