'14読書日記43冊目 "Philosophy and Real Politics" Raymond Geuss

Philosophy and Real Politics

Philosophy and Real Politics

田村哲樹先生のブログで紹介されていたので、読了。ロールズに端を発する分析系の規範理論を批判した書物。筆者はもともとフランクフルト学派の批判理論の研究に従事していて、日本語では次の本がある。ニーチェ研究者としても著名である。ケンブリッジの哲学部の教授で、クェンティン・スキナーとCambridge Texts in the History of Political Thoughtの編者をつとめてもいる。どこで見たのか忘れたが、スキナーが「系譜学」という言葉を使うとき、ゴイスの論文を参照していた。本書は一大センセーションを巻き起こしたもので、田村先生のブログの記事に幾つかそれに関連することが書かれている。
公と私の系譜学

公と私の系譜学

下記はヴォルフガング・ケアスティングというドイツを代表するカント研究者・政治哲学者の書評。ボロクソ。http://www.faz.net/-gr6-z7sd
Raymond Geuss, Philosophy and Real Politics, Princeton: Princeton UP, 2008.

以下レジュメ的なもの

Introduction
・政治理論における「カント」主義の優勢。「政治は応用倫理である」というスローガン
・当り障りのない解釈:政治的活動やその研究は、価値中立的なものではないという意味で倫理的である。政治的アクターは、善や許容されたもの、好ましいもの、望ましいもの、避けるべきものを判断しながら行為する。人間の生活は、応用数学や工学が前提とするようなデカルト的な理論空間と違って、不確定であり一貫しておらず矛盾に満ちている。
・倫理第一的な解釈(ethics-first reading):理想理論をまず完成させてから、それを政治的な活動に応用する。歴史的な人間の生活のなかに位置づけられずとも議論可能な倫理的命題があると想定され、それは歴史的に不変な諸原理(人間は理性的だ、自己利益を追い求めるetc.)から演繹される。

(1)政治哲学はリアリスティックでなければならない。社会的・経済的・政治的制度が実際どのように作動しているのか、特定の状況で人間はどのように実際に行為するのか、を考察することにまず取り組む。
(2)政治は行為やその行為のコンテクストに関するものである。理想や理念(あるいは空想や妄想)は現実に何らかの影響をおよぼす限りで政治的に重要である。
(3)政治は歴史的に位置づけられたものである。政治哲学の「永遠の問題」は存在しない。
(4)政治は理論の応用というよりもむしろ、創造の営み。予測できない状況下での対応。
 
Part I. Realism
・リアリスト・アプローチ:諸個人の協働を作為として捉えるホッブズ的立場。集合的生の多様性・可変性、歴史的な特異性への着目。
・「政治」と呼ばれる特定の領域をア・プリオリ存在論的に特定するのではない。
(a)レーニン的問い:Who whom? = Who does (has done, will, could) what to whom for whose benefit? 主体・権力・利害・関係・予測性への問い。理論の党派性への着目。
(b)ニーチェ的問い:人間存在の有限性、価値構造の変動という前提。政治は、特定の情況で限られた力と資源を持った行為者が特定の何かを求め、ある選択が別の選択を不可能にするというような事態に関わる。順序・連続・優先・時間性・歴史性。決断のタイミング。
(c)ヴェーバー的問い:行為の正統性への問い。正統性の社会的・歴史的変化。

政治哲学のtask
(1)特定の社会において組織化された行為形態の理解・説明
(2)行為の評価(道徳的観点・効率性・単純さ・明快さ・美的観点・真理性etc.)
(3)行為のorientation。形而上学的欲求(世界観への欲求)・人生の指針への欲求
(4)概念の革新(ex. state)。記述的・分析的であると同時に規範的な要素をもつ理論の導入。
(5)イデオロギー批判とイデオロギーとしての政治哲学

Part II. Failures of Realism
リアリスティックではない方法
(1) 諸権利をもとに構築された理想的な法制度に基づいて社会を構築する
(2) なにか単一の徳に基づいて完全な政治理論を展開する
→「私が使っている意味での「リアリスト」は、これとは反対に、現在の我々の動機や政治的・社会的制度を説明することから始める(一連の抽象的な「権利」や直観からは始めない)。こうした制度や実践を十分に啓発的に記述するには、なんらかの歴史を帯びた評価の語彙を用いなければならない」。

・権利
ノージックアナーキー・国家・ユートピア』冒頭。「個人は諸権利を持っている。そして(その権利を侵すことことなしには)個人や集団がなしえないことがある」。
→なぜ政治哲学の議論がこうした個人の(主観的な)権利を想定しなければならないのか? 歴史的には個人がこうした権利を持たない社会が存在した(古代ギリシャ、フランシスコ修道会の清貧運動)。ノージックの文を主観的な権利から客観的なrightへと書き換えるなら(「各人には力・自由・特権が与えられているということは正しい」)、なぜこれが客観的に正しいのか、なぜこれが社会的協働を組織する正しいやり方なのか、そうした力や特権の性質はなにか、各人に割り当てられているというのはどういうことか、だれが割り当てるのか、といった問いが生まれる。歴史的議論は、個人の権利という概念を論駁するためになされるのではなく、したがって発生論の誤謬にはあたらない。歴史的な議論はそうした論駁とは違った目的や構造を持っており、その概念を指示したり論駁したりするために持ちだされるのではない。むしろ目的は、答える必要がある重要な問いに注意をうながすことで議論の構造を変えること、問いそのものを変えることにある。「ある種の歴史的な説明が持つべき効果の1つは、ある種の想定を取ることがナイーブであったり「非哲学的」であるように見せるようにするということである。」

・正義
ロールズ『正義論』(1971):自立した社会的理想としての「正義」の概念の分析から議論を開始している。
→3つの理論的前提がおかしい。(1)「正義は社会的制度の第一の徳であり、それは思考の大系にとって真理がそうであるのと同じである」。正義が第一だとどうして分かるのか? (2)我々は「正義が最高位のものであるという直観的な確信」を抱いている。こうした直観がどこから来るのか、それらが歴史的・社会学的に変動しうるのかどうか、それらが社会の中でどのような役割を果たすのか? こうした直観を抱いている「われわれ」は誰を指しているのか? (3)原初状態と無知のヴェール。無知のヴェール下で選択できるのか? 
→さらに、権力の問題は全くと言っていいほど議論されない。「ロールズがどの程度権力の現象から注意をそらすか、権力がわれわれの生活と世界の見方にどの程度影響を及ぼすのかに応じて、彼の理論はそれ自体でイデオロギーになる」。
ロールズの理論は単にある特定の政治的概念を研究すると主張するだけでなく、政治に接近する基本的なフレームワークを提供するとも主張している。...もし政治理論が、それが現実世界と認識的な接点を持っているという意味で最低限リアリスティックであるだけで、行為を首尾よく導くことができると考えることができるなら、候補となる理論には、権力や利害や優先順位や価値や正統性の形態が社会の中で具体的にどのように互いに働いているのか、理解を促進させていくれるよう要求されるだろう。...しばしば言及されるが、ロールズにおいては彼の理想的な要求がどのように実行されるのかが欠落しているということ、これは付けぼくろになって顔の輝きを引き立たせるような小さな染みではない。...権力の理論が占める場所を持たない理論的アプローチは単にひどい欠陥があるというだけではなく、それが目くらましであるという理由で、積極的に有害である。」