'14読書日記30冊目 "Nichtideale Normativität: Ein neuer Blick auf Kants politische Philosophie" Christoph Horn

Nichtideale Normativitaet: Ein neuer Blick auf Kants politische Philosophie

Nichtideale Normativitaet: Ein neuer Blick auf Kants politische Philosophie

今年の2月に出たばかりのカント政治思想の研究書。『非理想的規範:カント政治哲学への新視覚』。筆者のクリストフ・ホーンはもともとは古代ギリシア哲学の専門家で、近年はカントの『人倫の形而上学の基礎づけ』のコメンタールを出したりしている(手広さに驚かされる)。本書が提示しようとするのは、カントの法・政治哲学が提示する理念は、『人倫の形而上学の基礎づけ』や『実践理性批判』で提示された道徳的理念とは性格上異なるものであり、言わば弱められた規範となっているということ、そしてだからこそ実現可能なものとして提示されているということである。
道徳哲学上の理念は、定言命法の手続きに従って導出された義務に、有無を言わさず内面の意志の格率を従わせるということこそが自由=自律であり、唯一の善であることを指し示す。義務は理性の法則として、あらゆる人間の意志を規定している。他方で、『人倫の形而上学』では、道徳と法が区別され、法は内面の意志の格率ではなく、外的な行為の選択(カント用語で言えば選択意志)に関わるとされていた。法における義務は、内面の意志の格率はどうであれ、とにかく他者の外的な行為の自由を侵害しないように(カント的に言い換えれば、他者の選択意志と普遍的に調和できるように)行為すべきことを指示する。法的な理念が指し示すのは、行為の帰結であり、あらゆる人の外的な行為の自由があらゆる人の自由と調和しているような秩序なのだ。
ホーンは、この区別に徹底的な追求を向ける。退けられるのは、カント解釈として一般的であるのだが、法哲学がカントの道徳哲学から演繹されたものだとみなす考え方である。ホーンによれば、この道徳-政治哲学的解釈は、法義務が道徳的義務とはまったく性格を異にするものであり、道徳哲学的著作で述べられるいくつかの定言命法の形式は、カントの法哲学にはまったく登場しない。際立っているのは、道徳哲学では定言命法に従い自律する人間の尊厳・価値が問題になっているのに、法哲学ではそうしたことは取り沙汰されず、ただ外的な行為の消極的自由(他人の選択意志の強制に従属しないこと)が人間の生得的権利として取り上げられているという点である(この点で、ホーンは現代の人権論の先駆けをカントに見出す議論を退けている。というのもカントはアメリカ独立宣言やフランス人権宣言に書かれた人間の権利として認められている具体的な内容のリストをきっと知っていたにも関わらず、法哲学上はその内容を捨象して、単に自由のみを認めているからだ)。しかし、かといって、道徳哲学と法哲学はカントの体形上まったく分離しているというわけではない。ホーンによれば、一つには両者の理念はどちらも実践理性から出てくる超越論的性格を持つという点で共通しており、他方で、歴史哲学的な議論のなかでは法的理念が実現された上で、道徳的理念が実現されるという結びつきになっているという点でもつながりがある。
カントの法・政治哲学は、実践理性という超越論的な観点から構成されているという点で、道徳哲学と確かに共通するところはあるが、しかし、なおやはりその差異は決定的であるというのがホーンの立場だ。ホーンがその決定的な差異の兆候として議論を向けるのは、カントの法・政治哲学における「許容法則」の概念である。許容法則とは、ごく簡単にいえば、通常は義務の観点から禁止されている事柄を、ある場合にかぎってのみ許容することを認める概念である。カントはこの許容法則を『人倫の形而上学の基礎づけ・法論』第2編「私法」のところで、決定的な仕方で議論展開のために用いている。それは、私法における外的な所有権の議論から、必然的に国家すなわち法的秩序を導き出すという過程において現れる。国家以前の状態では、外的な何かを取得するということは、つねに暫定的なものにとどまらざるをえない。誰かになにかに対する所有権を認めるということは、それ自体で対象の排他的な使用の権利を権利者に認めるということを意味するが、この排他性の観点において、それは他の人の選択意志の自由を制限することに繋がることは明らかだ。したがって、カントの法(Recht)の理念からすれば、あるものに対して所有権(Eigentumrecht)がある、つまりその取得行為が正しい(recht)とされるためには、その取得行為が他のすべての人の選択の自由を奪わないということ、言い換えればその習得行為にすべての人が同意するということが必要になる。こうしたあらゆる人の相互の同意が可能になるのは、国家という法秩序が成立した状態を置いて他にはない。国家以前の状態では、確かに何かを先に占有した人(先占者)に対してはその対象に対する暫定的な権利を認めるしかない(そうでなければ確定的な所有権が成立しない、としてカントはこれを実践理性から要請する)が、そうした権利はあくまで暫定的である以上、法の観点からは悖るのであり、それを確定的な権利へと移行させるために、万人はお互いを強制しあって国家の状態へと入らなければならない。しかし、他者を強制して国家を設立するということは、それ自体で再び、他者の選択意志の自由を制限することになる。にもかかわらず、これは所有権を確定的にし、いっそうの法の理念を可能にするためには許容されなければならない事態である。こうして法秩序以前の段階から、許容法則を通じて、それ自体は法の理念からは禁止されるはずの事柄(占有に対する暫定的権利、国家への参加の強制)が、法の理念が実現した法秩序へと移行するために許容されるのだ。法哲学はこの許容法則を包含しているという点で、カントの道徳哲学における定言命法の有無をいわさぬ普遍的妥当性とは決定的に異なっているとホーンは指摘する。許容法則は、義務の有無をいわさぬ妥当性に、その義務が目指す理念を実現するためにこそ例外を認めるのだ。
ホーンは、こうした許容法則を含んだ法・政治的理念の特徴を、ロールズの用いた概念である「非理想的理論(non-ideal theory」として捉えている。ホーンによれば、非理想的理論とは、あらゆる点で好都合な条件下で可能になる正義とはなにかを探求する理想的理論(ideal theory)とは違って、そうした好都合な状況が見込めないヒューム的な状況(資源の希少性・不安定性など)においてどのようにして正義が実現されうるかを説明する。この理想的/非理想的という区別を、ホーンはカントの道徳的/法的・政治的理念の区別に重ね合わせてみせる。つまり、道徳的理念においてはあらゆる理性的存在者(homo noumenon)であれば従わざるをえない定言命法の義務が提示されるが、法的・政治的理念においては、(自然状態や専制国家など)法秩序が欠落した状態で、いかに法秩序という理念を実現するか(それは許容法則において可能になる)が提示されているというのだ。ホーンのこうした議論は、かなりの点で説得力があるように感じられる。確かに僕としては多くの異論はあるけれども、そして許容法則を理念として捉えていいのかという疑問もないことはないけれども、カントの法的・政治的な議論の文脈において働いている理念の性格を問題にすることは、刺激的に感じられた。
許容法則の「思想史」については、最近出たBrian Tierneyの著作が、カント以前にも中世自然法論の時代から許容法則の問題が存在したこと、そしてカントの同時代人であるヴォルフやトマジウス、アッヘンヴァルにもそうした議論があることを示している。
Liberty and Law: The Idea of Permissive Natural Law, 1100-1800 (Studies in Medieval and Early Modern Canon Law)

Liberty and Law: The Idea of Permissive Natural Law, 1100-1800 (Studies in Medieval and Early Modern Canon Law)

理想的/非理想的理論については、ロールズ以外に、ホーンはMichael Phillips, "Reflections on the Transition From Ideal to Non-Ideal Theory", Nous 19(4), 1985とLiam Murphy, Moral Demands in Nonideal Theory, 2000を参照している。
Moral Demands in Nonideal Theory (Oxford Ethics Series)

Moral Demands in Nonideal Theory (Oxford Ethics Series)