'14読書日記51冊目 『政治理論とは何か』井上彰・田村哲樹編

政治理論とは何か

政治理論とは何か

僕自身は行くことができなかった今年の政治学会で、政治理論をめぐる部会があり盛り上がっていたという話を聞いていたのだが、それがこの本につながるものであったようだ。政治理論・政治哲学・政治思想(史)と複数の名前呼ばれたりする「政治学の思想系」(森政稔)は、科学化を志向する政治学(political science)と違って学問自体のアイデンティティが自明なわけではない。「政治学とは何か」ではなく「政治理論とは何か」という問いが立てられること自体が、そのことを物語ってもいる。プラトンにおいて政治と哲学の関係が問題であって以来「政治学の思想系」の学としての地位というのは潜在的には怪しかったのだろうが、その怪しさが一気に表面化したのは、政治学が実証性・経験を重んじて科学化しようとする1950-60年代にあって、政治哲学・思想・理論の固有性・意義が、科学化した政治学に対する学としての地位が、問われたときであった。そうした状況でイギリスのピーター・ラズレットが「当座、政治理論は死んでいる」と語った。が、主にロールズ『正義論』の刊行以後、政治理論は息を吹き返したかに見えた(本書の第5章松元論文が詳しく論じている)。しかし、息を吹き返したものとして中心的に語られているのは英米系の規範理論と呼ばれる種類の研究であり、他方で、最近ではこうした英米系の規範理論に対してレイモンド・ゴイスがそうしたものは倫理学ではあっても政治学ではないと言い、ある程度の話題を呼んだ。本書でも第10章で盛山和夫がそうした意味のことを語っている。ゴイスと盛山のあいだにはいくつかの違いはあるのだが、規範理論は現実の政治を一切顧慮せず、正義や自由や平等といった抽象的な構想だけを議論することに終始していると批判する点で共通しており、その限りでその理論はまったく役に立たない(盛山)かイデオロギーに堕している(ゴイス)というのだ。もちろん、いま「政治理論とは何か」と問われるのは、規範理論の存在意義に疑義が呈されているからだけではなく、80年代以降のフーコーデリダといったポスト構造主義の理論を用いた議論の流行にも疑義が呈されているからでもある。それは一般に政治とは無関係あるいは周辺的・微視的なところに「政治的なもの」を見出すタイプの議論が多く、盛山の言葉を借りれば、この種のものも人々の意志をまとめあげる制度化されたプロセスや仕組みへの考察を欠いているがために、規範理論と同じく脱政治的である。社会学の大家に指摘されるまでもなく、近年でも川崎修や森政稔といった人が政治学の内部から「政治的なもの」の議論へ懐疑的な視線を投げてはいた。
「政治的なるもの」の行方

「政治的なるもの」の行方

このように存在意義が自明ではない「政治理論」ないし「政治学の思想系」をどのように位置づければいいのか、とりわけそれは政治科学としてメインストリームにある政治学に対して正当な場所を見つけられるのか、ということは少なくとも政治思想史にかかわっている僕にとっても大いに興味を引かれた(ところで以前も書いたことがあるが、ラズレットは政治理論に死を宣告した一方で、彼の研究(ロック『統治二論』の編集)からはより歴史学的な意識を伴った思想史研究の潮流が生まれることとなった。本書の7章で考察されているケンブリッジ学派がそれにあたる。ラズレットが死を宣告した政治理論が倫理学的な方法でなされる方向へ進んだとすれば、ラズレットの編集から生まれた政治思想史研究は歴史学的な方向へ進み、両者はともにそれまで政治学と呼ばれていたものとの自明な関係性を失っている)。本書を読めば、「政治理論とは何か」の答えが一義的に与えられることはないし、むしろ多義的であることが理解される。多義的であるということは業界内部の人間にとってはさほど新奇ではないことだが、それよりもこうした論文が中堅の研究者によって書かれることで、それ以下の若手が自分のやっていることがどのようなたぐいのものでありえ、それが他の「政治理論」とどう関わりを持つことがありえるのかと反省するきっかけが与えられる、このことに大きな価値があると思う。また政治学の中でもマイノリティである「政治理論」「政治学の思想系」の研究者が、本書を読んで挑発されるように感じられることがあるかもしれないし、むしろそうした論争喚起的なところも面白いと思う。僕としては、そのうえで、方法論や「政治理論」のあり方は多様であってもよいし、必ずしもゴイスや盛山の言う方向で研究を進めるべきだとも思わない、という微温的な感想を持ちはするのだけれど。

序――政治理論とは何か(井上彰(立命館大学)・田村哲樹名古屋大学))
第1章 分析的政治哲学の方法とその擁護(井上彰)
第2章 政治/政治的なるものの政治理論(田村哲樹
第3章 世界観としての政治理論(西山真司、名古屋大学
第4章 現実政治と政治理論(岡崎晴輝、九州大学
第5章 政治理論の歴史(松元雅和、関西大学
第6章 「政治理論」と政治学――規範分析の方法論のために(河野勝早稲田大学
第7章 政治理論と政治思想史――J・G・A・ポーコックと「ケンブリッジ学派」(安武真隆、関西大学
第8章 法哲学から見た政治理論――ロールズと合理的選択理論を手がかりに(若松良樹学習院大学
第9章 社会的正義の情報的基礎――社会的選択理論からの接近(須賀晃一、早稲田大学
第10章 政治理論の応答性とその危機――脱政治への志向がもたらしたもの(盛山和夫関西学院大学東京大学名誉教授) 
田村哲樹先生のブログにあったものをお借りしています)

本書の1〜4章まではありえる理論の方向性がそれぞれの角度から述べられている。僕として興味深かったのは、規範理論とそうではない政治理論、とりわけ政治的なものの政治理論について述べられた第1章井上論文、第2章田村論文である。
井上論文では、分析的政治哲学が論理実証主義からクワインに至るまでの分析哲学を基礎にしたものであることが明確化される。概念分析の課題とは、第1に「関連するとおぼしきケースから真にそのケースとされるものを見つけ出すことである」。この「腑分け作業」の際に依拠するのは「自分の直観」、そして「自分だけのものではない、すなわちわれわれが共有する直観」である「民衆理論」である。課題の第2は、「その概念が真に、すなわち正確に特定の記述的性質と照応するケースをカヴァーしているというためには、あらゆる証拠をふまえたうえで、われわれの直観的反応が意味するところを最もよく捉える理論」を求めることである。こう論じたうえで、筆者はロールズとドゥオーキンの議論が分析的政治哲学に位置づけられることを確かめる。筆者によれば、分析的政治哲学を批判する人らの議論は、大抵の場合、不理解に基づくことが多いのだが、根本的な対立は、次のことを認めるかどうかというところに見られるという。それは「道徳的・政治的コミットメントを反映した概念の構成部分に潜む根源的な通約不可能性を認めるかどうか」ということである。例えば、正義や自由概念は歴史的・共時的に複数であったり不確定であったりし、その概念同士が通訳不可能で対立を孕んだものであり、こうした見解を分析的政治哲学への批判者は認める(コノリーやジョン・グレイ)。しかし、仮に通約不可能性を認めたとしても、分析的政治哲学も1つの社会・文化的な産物であるとしてそのイデオロギー性を暴露するだけでは「理論は改善の対象ではなく、それこそ文化的選好の対象として」扱われるだけであり、筆者は「その信念体系の進展はせいぜい偶然的な所産であって、その改善への方向付けは大系内で担保されることはない」と主張する。「決定的な違いは、分析的政治哲学が概念の解明のために不可欠な理論的知識体系や様々な手法の洗練化を、人間にとって不可欠な知的営為とする点である」。「分析的政治哲学者が正義ないし他の規範的概念の解明に基づく統一的構想を提示しようとするのは、そうした営為を通じて起こる批判の応酬によってしか、理論や分析手法の前進が望み得ないと見ているからではないだろうか」。
僕としては、政治理論が必ずしもゴイスや盛山の言うようなリアリズム的な形でなされる必要はないと考えるし、それが歴史的・社会的コンテクストに根ざしたものでなくとも、また権力について考察していなくても、政治における規範を考察するものとして分析的政治哲学の議論は重要であると思う。ゴイス自身も規範的な議論を認めているが、彼の議論は現状追認的な方向に流れかねない。が、分析的政治哲学が現実とどのように関係を取りむすぶのかについて、井上論文に対しては次の2つの点で疑問を持つ。第1に、分析哲学が概念の解明のために人々の日常言語の分析に依拠するというのは理解できるが、分析的政治哲学の規範構想が人々の現在の道徳的直観に妥当性の基準を置くのはなぜなのかはあまり理解できない。そのような直観は歴史的・文化的にバイアスのかかった恣意的なものかもしれない。直観を「熟慮による信念」と定義したとしても、熟慮が内省的になされるのであれば同じことではないか。規範概念を分析した結果出てくる構想というのは、分析哲学とは違って、当然Sollenを含む規範的な命題になると考えられるが、井上論文では概念の分析・解明というところに焦点が当てられており、分析した結果、その構想がどのような規範的拘束力を持つのかについてはあまり触れられていないように見える。規範理論の役割が人々が現時点で持っている道徳的直観を記述するのみならず、そうした直観を修正することでもあるとすれば、その場合には、規範理論が提示されれば人々の直観が修正されるということを分析的政治哲学者が期待しているのだと想定してもよいだろう。そこで第2に、しかし、規範理論を受け入れることができるほどに「道徳的な」人間・世界を前提としていいのだろうかという疑問がわく(また、規範理論研究が哲学的に精緻を極めていくの反比例して、在野ないし一般の人々の規範的構想へのアクセシビリティは低下していくということも関連して問題になるような気がする)。井上論文では、「信念体系の進展」、「理論や分析手法の前進」は語られるが、現実が理論に適合するよう進展・前進していくことは語られない。現実の社会に規範的な構想が適用され、社会が変革されていくプロセスを理論化・構想する必要はないのか。
規範理論はしばしばイデオロギーだとして論難されることがあり、それは感情的な中傷であることも多いとは思うのだが、イデオロギーとして暴露された側にも取りうる道は確かにあるのではないか。一般に、あるイデーがイデオロギーとして暴露されうる場合には、大きく2つのことがありえる。第1に、イデーとみなされたものが実は普遍妥当性を満たしていない、という場合がある。この批判が「われわれの直観に反する」という形で書き換えられるとすれば、分析的政治哲学はそれを取り入れて理論を修正・改善することができるだろう。第2に、イデーが現実と一致していないだけでなく現実の非理念性を覆い隠してしまっているという場合がある(マルクス)。例えばゴイスは、現実の権力関係、支配の図式を顧慮せずに正義の理論の構築に邁進するethics-firstな議論は、イデオロギーだと批判する。必ずしもこの批判があたっているとは思えないが、一般的にこのような形でイデオロギーであると暴露された側の哲学は、こうした場合、自身の理論的修正ではなく、現実の変革へと思考を進めざるをえないだろう。分析的政治哲学は、この点についてどう考えるのだろうか。規範理論が自らの提示する理論をどのように現実に移し替えていくのかということを考えるなら、分析的政治哲学の批判者が主張する、世界に内在する「概念の構成部分に潜む根源的な通約不可能性」は、規範の現実への適用の際に重大な障害となりえる。こうした問いがそもそも分析的政治哲学のものではないとすれば――当然そうであっても構わないが――他の政治理論(政治科学や政治的なものの政治理論など)との協働が見込まれているのだろうか。
他方で、田村論文では、ゴイスや盛山、ムフの規範理論への批判を紹介しつつ、政治的なものの領域がどこに見出されうるのかということが論じられている。規範か経験かというディコトミーから政治的なものの理論を評価しようとするかぎり、その結論は政治的なものの理論のなかにも規範的要素が含まれている、しかしそうであれば規範理論で十分ではないか(あるいは規範の哲学的考察が不十分だ)ということになりかねない。筆者はそのうえで、政治的なものの政治理論の独自性を、規範/経験の二分法に収まらない部分に求め、それを3点挙げている。第1に政治的なものの理論は、「必ずしも観察可能ではないが経験的な次元を把握することで、既存の規範とは異なる規範の存在可能性を理論的に担保する」。つまりこのアプローチは、所与のものとは異なった新しい規範が偶然的に創発・発見されるプロセスを理解しようとする。第2に、政治的なものの理論は秩序形成メカニズムを説明する。そこでは規範概念が社会の秩序形成とどのような関係を持ち、集合的意思決定にどのような影響をもたらすのかが解明されるという。このアプローチは規範的とも経験的とも言いがたい、あるいはその両者を兼ね備えたものであり、しかもそこでは観察可能ではない理論的な反省がなされている。最後に、政治的なものの理論は、社会が最終的にいかなる単一の原理によっても基礎づけられてはいない、基礎づけられうることはない、ということを前提とする。このことは前の2点においても前提とされる認識である。社会は最終的な決定審級を持たず、政治以外の他の要素、例えば経済や科学、道徳といったものによって規定されているわけではない。その意味で社会は不確実・偶然的であり、その認識において政治的なものの自律性・優位性が弁証される。ポスト基礎付け主義(オリバー・マークハルト)と呼ばれる立場に立ったうえで、この基礎づけの不可能性を前提とした理論構築を行うことが政治的なものの理論であると主張される。
田村論文は、規範理論・分析的政治哲学の手法の重要性を認めつつ、しかしなおそこには完全に還元できない政治的なものの領域があることを示したものである。僕自身はethics-firstな形でなされる種類の分析的政治哲学には疑問を持つし、政治哲学を応用倫理として捉えることには不満があるので、政治的なものの独自性をどこに求めるのかを真向から論じる議論を興味深く読んだ。しかしなお次の3点で疑問を感じた。第1に、政治/政治的なもののという区別は、ハイデガーの存在的/存在論的を利用してなされていると説明されているが、それはどのような意味で「利用」されているのだろうか。単にアレゴリー的な意味なのか、それともより哲学的な含意があるのか。政治的なものは「存在論的」次元にある「社会が制度化されていくあり方そのもの」として把握されると言われる場合、これをそのままハイデガーの議論のアレゴリーとして読むことは難しいのではないか。もしハイデガーの議論からより哲学的な連関を持って主張されているとして、彼の存在的/存在論的区別と、政治/政治的なものという区別はどのような関係に立つのか。後者の区別はせいぜいハイデガーにおける存在的な探求、「世界」の把握にとどまるのではないか。ハイデガーは世界から現存在分析へと歩みを進めていくことを存在論的議論と呼んだのではなかっただろうか。また次の点にも関係するが、ハイデガー存在論と、社会のあり方における偶然性というのはどのように関係しているのか。第2に、ハイデガー的区別を採用することが、そして政治的なものをムフのように存在論的次元で捉え、「社会が制度化されていくあり方そのものに関わるもの」として把握することが妥当だとして、そのあり方が偶然であるということを指摘するということ以外に、政治的なものの議論は何かを理論化するということができるのだろうか。偶然的である政治的なものを、例えばラクラウのように「新たな制度形成のための基礎」と呼んだり、マークハルトのように「原理」と呼ぶことは、理解しづらい。というのも、理論構築という作業がなんらかの法則性や真理性を導出することを意味するのであれば、偶然的なものを原理・基礎にして理論構築をするという表現は矛盾しているように聞こえるからである。偶然的なものを基礎にして構築された理論(この言い方さえ撞着的に感じる)というのは、それ自体で偶然的なものにならざるをえない。もちろん偶然的なものに"関する"理論ということはありえるし、ある対象の存在は偶然的であるという言明は真理である場合もありえる。しかしそれ以上のことが言えるのだろうか(もちろんそうする必要は必ずしもない)。言い換えれば、基礎づけの不在・偶然性・不確実性を指摘する認識以上に、政治的なものの理論からはどのような実践的含意が引き出されうるのだろうか。社会の制度化のあり方の本源的な偶然性を前提とするなら、それに基づくどのような実質的な実践的命題も偶然的なことになってしまい、いつどこでどのように判断し行為することが適切なのかを指示することはできなくなるのではないか。政治的なものの理論における実践的命題がそれでもなお有意義になろうとすれば、そこからまったく実質的内容(偶然性に左右される当該のもの)を取り去った命題になるだろうが、それがどのような含意を持つのかは分からない(例えばシュミット流の「決断」というものが考えられるが)。最後に、政治的なものの理論は社会の基盤の不在の認識に基づくとして、それが本当に道徳に対する政治の優位を示すことになるのか、またそのことは望ましいことなのだろうか。確かに社会はある単一の規範的概念によってのみは構成されていないかもしれないが、こう言われたからといって規範理論の方からは――Sein/Sollenの区別を踏まえつつ――、だからといって何らかの規範的構想が社会を基礎付けるべきだということを退けることにはならない、という答えが返せそうである。これに対しては、政治的行為や判断は道徳に基礎づけられるべきではないと答えることもできるが、この回答が望ましいかどうかはまた議論されうるべき問題であるだろう。
色々なことを書いたけれども、本書の論文を読んでいて、自分のやっている思想史だけでなくこれからの「政治理論」「政治学の思想系」がどのように研究されていくのか、あるいはされるべきか、ということを色々考えさせられた。他にも河野論文の規範理論の方法に関する整理は非常にオリジナルで面白かったし(例えば、分析系の議論がなぜ突飛な思考実験を行うのかといったことの説明)、安武論文もポーコックの思想史の仕事とその仕事の政治的含意について啓蒙的であった。欲を言えば、それぞれの章ごとにバラバラに語られる「政治理論」間の関係について、その協働の可能性を含めて論じられても良かったのではないかとも感じた。岡崎論文や盛山論文で批判的に述べられているような、政治理論と現実の関係性についてはなお僕自身(自分の思想史研究と現実の関係性も含めて)考えなけれいばいけない課題だと思う。(犬塚元先生の書評はこちら