'14読書日記56冊目 『いと高き貧しさ』ジョルジョ・アガンベン

いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式

いと高き貧しさ――修道院規則と生の形式

I 規則と生
1. 規則の誕生
2. 規則と法律
3. 俗世からの逃亡と創憲

II 典礼と規則
1. 生の規則
2. 口述と書記
3. 典礼のテクストとしての規則

III 〈生の形式〉
1. 生の発見
2. 法権利を放棄する
3. いと高き貧しさと使用

解説

アガンベンは現代的なものを論じている時より、古代思想や中世神学を論じている時のほうが抜群に面白いという感じがするのだが、本書は現代への言及はこれまでのどのテクストよりも控えめで、それだけに面白さが抜群である。『王国と栄光』は『ホモ・サケル』なんかよりマスターピース感があってとても好きなのだが、本書もまた、小ぶりではあるものの、扱われているテーマの興味深さにグイグイと惹きつけられる。
本書で扱われているのは、修道院の規則、とりわけアッシジのフランチェスコが設立したフランチェスコ修道院の規則である。修道院規則は、修道士たちの生を統率するものであると一般的に理解されているが、実際に問題になっているのは、その規則によって人々の生と慣習を個々に、集団として統治することであった。規則が生になり生が規則であるような、両者の不分明となる領域がそこで形成されようとしていたのだ。アガンベンは、法律、すなわち教会法・市民法との対比から修道院規則の特殊性を明らかにしている。生あるいは規則(vita vel regula)、生きる形式(forma vivendi)、生の規則(forma vitae)としての修道院会則が極致に達するのは、アッシジのフランチェスコが始めた清貧運動である。表題ともなっている「いと高き貧しさ(altissima paupertas)」とは、フランチェスコ会のモットーであり、それが意味するところは、一切の所有権を放棄して生きること、一切の権利を放棄する権利を持って生きること、であった。それはキリストの生の足跡をたどることであり、その生を規則として生きることだった。アガンベンいわく、ここには絶対的に法権利の諸規定の外にあって人間としての生活と実践を実現しようとする試みがあらわれている。しかし、フランチェスコ会の運動は、教皇・教会との対決のうちに敗北せざるを得なかった。それは、彼らが自らの「いと高き貧しさ」を論理的に主張するために法学の用語に依拠せざるをえなかった帰結であるとアガンベンは主張する。アガンベンは、フランチェスコ会教皇とのあいだで繰り広げられた論争をフォローし、そこで問われていたのが、所有することなしに何かを使用することができるのかという問題だったことを明らかにしている。全面的に法学的な議論が開始されることによって、フランチェスコ会の「いと高き貧しさ」という生の形式は、法権利との否定的な関係に置かれる。彼らは、所有と使用を、事実上の使用と権利上の使用を区別し、権利として何かを持たずとも事実上何かを使用することが法学的に可能であると論証しようとした。ところが、ヨハネス22世はこうした区別が成り立たないとして圧倒的に明証に反駁するのである。