'15読書日記5冊目 『代議制統治論』J. S. ミル

代議制統治論 (岩波文庫)

代議制統治論 (岩波文庫)

On Liberty and Other Essays (Oxford World's Classics)

On Liberty and Other Essays (Oxford World's Classics)

某法学政治学研究科のUゼミで読了。ミルといえば『自由論』を学部生の頃に読んで以来だった。さらに久しぶりの輪読ゼミだったが、やはり輪読は良い。様々な意見が出て、理解がブラッシュアップされる。
『代議制統治論』はミルの中でもややマイナーであまり論じられてこなかった部類の著作に属している。1861年、第一次選挙法改正と第二次のそれの間に書かれた本書は、様々な点で興味深い。ミルは選挙権の労働者階級への拡大の機運が高まる中で、議会においてどのようにすれば階級立法を防ぎ、真の公共の利害を目指して多様な意見がしのぎを削るアンタゴニズムを引き起こせるのか、ということを集中的に議論する。超克されるべき現実の問題としては、階級立法とそれに派生する一種のポピュリズムのほかに、腐敗選挙区や富裕貴族層の恩顧、地方的利害への没入といったものもあった。ミルはバークと同様に、代議員を選挙民の利害や党議に縛られず自分の意見を戦わせる独立代表として見ている。焦眉の課題は、階級立法が優勢になり、さらには無教養な労働者階級が代議員として参入していくなかで、少数の教養と徳のある市民が議会において代表されるようにするということである。というのも、こうしたエリート的な市民が代表されない限り、議会においては対抗する2つの階級利害、あるいは当時ようやく成立した保守党と自由党という二大政党の利害に議論のアリーナが覆われてしまい、真に公共的な利益を目指した議論がなされないとミルは考えるからである。そのため、ミルは比例代表制と教養階級への複数投票制を提案するに至る。これはミルのオリジナルの議論ではなく、Thomas Hareという人物のものなのだが、これによって少数派の有徳で教養ある市民が議会においてごく僅かであるが議席を占めることができると考えられたのである。少数であれ、有徳で真に公共的利害を考える人物が議会で理性的な演説を行うなら、その影響力(ミルはmoral powerと呼ぶ)は勢力が均衡した2大政党のなかにも必ずいるに違いない有徳で理性的な議員に及び、議会の決定をより公共的なものへと変化させるだろうというのだ。
こうした議論、特に教養階層への複数投票権を認めるという議論は、現代から見れば権利の平等という観点で支持しえないように思われるかもしれない。しかし、ミルはミルで一貫した考えを持っており、特に複数投票制の擁護には――このトピックとは別にしても――見るべき方法論がある気がする。ミルは政治制度を二方面から観察する。一方は、例えば述べてきたように複数投票制と比例代表制によって腐敗選挙区や階級立法が打破され、より公共的利害に則した意思決定がなされるというような、政治制度がもたらす実質的な帰結である。もう一方は、ミルが制度の精神と呼ぶものから派生する制度の副次的効果である。制度の精神とは、制度が目指している理念や制度の根本にある原理のようなものだが、その制度のもとで人民が統治されることで、知らず知らずのうちに人民はその制度の精神を理解するようになり、それに応じた形で行動するようになるというのだ。興味深いことに、拡大する選挙権が知的水準の低い労働者階級を国政に招き入れ、さらに階級立法に至る段階において、ミルが言わば次善の策、暫定的な制度として知的エリートへの複数投票権を認めているというのではない。言い換えれば、労働者階級は今は知的水準が低くても、やがて教育が普通化されることを通して、あるいは国政に参加することで政治的に陶冶されることを通じて、いつかはもっと知的水準が高くなる時が来るだろう、その時には平等選挙に戻せば良い、と言っているのではないのだ。ミルが注目するのは複数投票制が持つ制度の精神である。この場合その精神とは、知的にすぐれた人物には公共の事柄について、優れていない人よりも意見を聞いてもらって当然である、というものである。複数投票制のなかで統治される人民はこの精神に触れ、自分の意見が聞き届けられるべきならば、より知的に洗練されなければならないと痛感するだろう。こうした制度の精神がもたらす心理的影響にミルは着目し、次善の策としてではなく、積極的に複数投票制を主張するのである。ここまで言われると、教育の不十分さというのは社会的再生産の問題であり、本人の努力不足ではない可能性が高いという社会学的知見を持っている現代の我々としても、ミルの議論に耳を傾けて見る価値はありそうだと感じられるだろう(果たして公共的利害というものが現代の社会において存在するのかというより根本的な問題は脇にどけておかないといけないけれども)。
ここまででは、実は『代議制統治論』の重要な部分の半分しか触れたことにならない。もう半分の部分として存在するのは、本書冒頭部の3-4章までで集中的に論じられ、その後の議論の基底をなすことになる、文明の発展段階と統治制度の関連についての議論である。『代議制統治論』を読み始めた人は、なかなか代議制の話が展開されず、ミルのほんとうに重要だと思っているらしいが、しかし我々にしてみればもやもやとするような文明史観が開陳されることに驚かずにはいないだろう。ミルによれば、人類史には野蛮/文明という大きな2つの段階があり、進歩は野蛮から文明へ向けて人間の徳や知性が増大していくことを言う。最善の統治形態というのは、ア・プリオリに考察可能なものではなく、人民がどの文明段階にいるのかによって決まる。ミルにとって、根底をなしているのは統治形態ではなく人間の進歩であり、どの統治形態が人間の進歩にとって重要かが問題なのだ。ミルいわく、野蛮な状態では人間は服従というものを知ることがないため政治体は存在しえず、半野蛮の状態に至って服従することを学び政治体を構成する。しかしこの段階では徳や知性において劣っており、内発的な文明の発展は望みえない。したがって、半野蛮から文明の段階へと移行するためには、その人民を導くより文明の度合いが高い他国民による専制統治が必要である。そして、文明段階においてのみ、人民が自ら政治に参加し、代議制を運営することができる、というのだ。イングランドはこうした代議制を運営できるほどの文明レベルに達しているという前提で、上で述べたような制度改革の問題が論じられるのである。しかし、問題なのは野蛮な状態にある国民は、文明段階へと上昇するためには他の文明国の人民による専制支配を受けなければならない、とミルが主張している部分である。ミルは最終章をほぼまるままこの問題に割いているのだが、具体的に言えばそれはイングランドのインド統治に関してのものなのである。ミルが『代議制統治論』を書いたのは、1857年にインド大反乱が起き、そのために東インド会社が廃止され、イングランド政府がインド庁を設立し直接インドの支配に乗り出したあとのことだった。ミル父子はともに東インド会社で働いていたこともあったのだが、ミルはイングランド政府の直接統治がいかにまずく、東インド会社の統治(それをミルは政府直轄ではないという意味で派遣代表と呼ぶが)がいかに素晴らしかったのかを述べているのである。ポストコロニアルな我々にしてみれば、ミルの議論は説得力を書いて映らざるをえない。もちろん、当時、資本主義的あるいは帝国主義的利害からインドを軍事的に制圧しようとした人らが主流であった言説の領域において、文明的に劣った植民地の統治は、統治の人民のために、その文明レベルを引き上げるためだけに、なされなければならないと主張するミルの、政治的な立ち位置はそれはそれとして評価されるべきではあろう。しかし、とやはり口ごもらざるをえないような議論が『代議制統治論』では幾箇所にも現れるのである。
ミルと言えば、『自由論』の危害原則や思想・言論の自由を主唱した近代リベラリズムの立役者として通念されているのだが、『代議制統治論』には複数投票制に示されるようにかなりエリート主義的な側面、そして植民地の議論や野蛮から文明へという文明史観に示されるコロニアリスト的な側面が前景化されている。こうした意味で非常に評価の難しい書物なのではある。
ちなみに、岩波版の翻訳はアマゾンのレビューにも書かれている通り、日本語として意味がわからない部分が非常に多い。ミルの英語自体、挿入につぐ挿入というもので読みやすいものではないのだが、それにしてもひどい。ゼミでは2つ目に上げた原書の方を用いていた。が、このJohn Gray編集版は注が全然充実していないため、イングランドの当時の政治的社会的状況の知識や、あるいはミルが様々に触れる古代ギリシア・ローマの政治制度の知識を相当程度にない場合には、まったく理解に役立たないものとなっている。幸い、Liberty Fundがwebに公開しているミル全集が読めるので、読もうとする人はこのサイトを片目に訳書を読めばいいのではないかと思う。http://oll.libertyfund.org/titles/234