'15読書日記16冊目 『神学・政治論』スピノザ

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(上) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(下) (光文社古典新訳文庫)

神学・政治論(下) (光文社古典新訳文庫)

去年、待望の新訳が出た。ようやく読むことができたわけだが、スピノザの議論の周到さ、無理のなさに驚かされた。とりわけ、読むのが苦しくもある聖書解釈をめぐる記述の章をくぐり抜けていって――しかしこれらの解釈も(その妥当性はわからないなりにも)確かになるほどと現代の人が読んでも頷けるような――、最終章第20章でそれまでの議論から一気呵成とでも言うかのように、思想の自由、言論の自由が擁護されるところは、非常にぞくぞくとする。結論は、本書の扉に書かれた言葉「本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示した様々な論考からできている」というものだが、この文言の後半部「むしろ」以下の含意が非常な説得力を持って迫ってくるのである。本書の多くの場所で聖書解釈にかんする事柄が扱われ、それをもとに神学と哲学の(無)関係、宗教権力と政治権力の関係が論じられていくのだが、20章ではそれらが一挙に有意義な論拠となって展開されるのである。スピノザが提示する正しい聖書解釈に基づけば、聖書には基本的には隣人愛と正義という単純な教えが最も一貫して読み取られるべきものとして書かれており(ここまでで大体13/20章費やされる)、信仰とは口先が教義に一致しているかどうかということではかられるのではなく、行為における一致如何によってはかられる。それゆえ、聖書の言明一つ一つの解釈を根拠にして破門や異端宣告を行うことなどは問題外である。信仰はそれぞれの人に哲学する自由を認めており、何をどう考えて判断しようとも罪を犯したことにはなりえない。ところで、国家において至高の権力に服従するということは、自然状態における不安を解消し安全と自由を享受するということであるから、至高の権力への服従は聖書が教える愛と正義を満たすことと一致するどころかその前提でもある。では――ここでスピノザは主権論からそれを執行する統治論へと舵を切る――、自由と安全を保障する国家にとって、哲学する自由、自分で判断する自由、思考・伝達の自由を規制することは有益だろうか。

たしかに権力者たちは、自分たちと何一つ意見の一致しない人がいる場合、そうした人達をみな敵と見なせる権利を持っている。これは嘘ではない。しかし私たちが今話題にしているのは、もう権力者たちの権利のことではなく、何が[国全体にとって]有益かということなのだ。たとえば、たしかに権力者たちは、きわめて暴力的な支配を行ったり、市民たちを極めて些細な理由で死に追いやったりする権利を持っている。このことを私は否定しない。しかし、健全な理性の下すまともな判断に耳を傾けた上でそんなことを実行できる人が、果たしているだろうか。(第20章、p.302)

人間は自由に考えをめぐらせ、あらゆることいに判断を下す自然な権利を持っており、この自然権を他社に譲り渡すことは、いくら強制されたとしても誰にもできない。

たとえ黙っている方がよい場合でも、人は自分の思うことを他人に打ち明けてしまう。人は誰でもそういう悪癖を抱えているのである。したがって、一人ひとりに思うことを行ったりと至りする自由を認めようとしないなら、その支配体制は極めて暴力的になるだろう。これに対し、こうした自由がひとりひとりに認められるなら、その支配体制は穏健になるだろう。(第20章、p.303)

たしかに主権を侵害するような言葉はあり、そうした言葉は禁止されなければならない。政府の不正を論拠にして支配に抵抗しようとしたり、民衆を扇動しようとしたり、あるいは政府の同意なく法律を廃止しようとするなら、そうした言葉は自由からは締め出されるべきである。しかし、

例えば誰かが、ある法律が良識に反していることを示した上で、このような法律は廃止するべきだとうったえかけたとする。この時、もしこの人が自分の主張を至高の権力(法の制定や撤廃は至高の権力の専管事項なのだ)の判断に委ねて、決着がつくまでは当の法律の指図に逆らった行動を取らないなら、彼は極めて善良な一市民として、間違いなくその国の政治に大きく貢献している。(第20章、p.306)

言論は、なすべき行為についての取り決めはすべて至高の権力に委ね、それに行動によって逆らわない限りで自由に任せられるのである。
反対に言論の自由を抑えこんでしまえば、どうなるか。かといって、権力者たちのいのままの考えを人々に植えつけることはできない。人々は本心と違うことを語るようになり、結果国家体制において必要とされるはずの誠実さを失い、忌まわしいへつらいと不誠実、騙し合いが生まれる。それどころか、自分の信念を述べることが自由に任されておらず、その信念が異端視されたり犯罪視されたりするのであれば、人々はその信念を捨てるよりもむしろその信念のために生命を賭してでも、そうした法律には向かうことを良しとするだろう。法の安定性は損なわれてしまう。さらにどのような意見が公表する自由に預り、どのような意見が禁止されるのか、という問題もある。つまり、意見の対立に決着を着けるために、人々は法律や政府を味方につけて、対立する見解を禁止しようとする。この結果、なおさら度し難い敵対心が掻きたてられることになる。

こうした法律は、結果的に特定の人達の怒り[に駆られた迫害行動]を承認、というか追認することになってしまった。特定の人達とは、自由な気質の持ち主を大目に見ることができない人たち、とある陰湿な権威を振りかざしては、反逆に流れがちな民衆の奉仕心を簡単に狂気に変え、望み通りの相手にけしかけられる人たちのことである。(第20章、p.316)

訳者の解説も親切で、特にどのような政治的背景のなかでこの本が書かれたのか、ということがわかりやすい(わかりやすい、とは言うものの当時の政治状況は複雑である)。聖書解釈と国家論という今から見れば得意な取り合わせも、宗教戦争が続き荒廃したヨーロッパでは当然扱われなければならないテーマであった。ホッブズの『市民論』にも『リヴァイアサン』にも同じテーマの論述がある。ホッブズスピノザの聖書解釈の比較という興味深いテーマに関して、そしてオランダの政治情勢とスピノザの聖書解釈の政治性については以下。

国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗

国家・教会・自由―スピノザとホッブズの旧約テクスト解釈を巡る対抗