'15読書日記17冊目 『社会的排除とは何か』デイヴィッド・バーン
- 作者: デイヴィッド・バーン,深井英喜,梶村泰久
- 出版社/メーカー: こぶし書房
- 発売日: 2010/07/05
- メディア: 単行本
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バウマンの分析は、形式としては非常にマルクス主義的であり、問題の核心を突いている。これが決定的な課題である。本章の主旨は、彼の誤りを示すことである。すなわち、「社会的排除」として現在議論されているのはまさに労働予備軍のことであり、われわれは、現代における資本主義の再編が、同時に生じる生産力の発展と停滞と、その生産力に影響を及ぼす階級要素の発展と停滞とによって、絶対的に規定されていると理解しなければならない。
「社会的プロレタリアート」も「停滞的労働予備軍」も、現代資本主義における蓄積のロジックと決して無関係ではない。それどころか、彼らの存在は、現代の資本蓄積にとって決定的な重要性を持つ。彼らが重要であるのは、彼らが新たな社会秩序をもたらす手段として必要だからである。また彼らが重要であるのは、彼らを搾取することが、新たに生み出されつつある資本主義の持続的な蓄積過程にとって不可欠だからである。こうしたことなしにポスト・フォーディズム/ポスト工業的な資本主義は、一般に存在しない。停滞の議論からすれば、社会的排除は、資本主義の発展に伴う偶然の産物ではなく、まさに資本主義の発展に固有のものである。
排除とは搾取の現代的形態であり、実際そこには目新しい物は何もない。これが私の主張である。排除は、産業革命の初期を特徴付ける搾取のあり方と、極めて多くの共通性を持っている。