'15読書日記21冊目 『戦後日本の社会思想史』小野寺研太

戦後日本の社会思想史 近代化と「市民社会」の変遷

戦後日本の社会思想史 近代化と「市民社会」の変遷

院の先輩の著書。ご恵投頂きました。今日は院ゼミで先輩をお招きして、僕も専門外ながら質問やら感想を述べさせてもらいました。充実した会になったと感じています。日本の戦後思想のことちょっとだけ興味が出てきました…。
内田義彦を軸にして、内田以前の大河内一男高島善哉、内田以後の松下圭一・平田清明・望月清司・見田宗介ら、いわゆる「市民社会」派の言説を追う思想史である。彼らは、一方で前近代的なところを残しつつ、他方で近代化してしまっているところもあるという講座派的な日本の認識に基づき、日本には西洋のような市民社会はない、それは近代化のプロジェクトとして作られなければならない、と主張した。あるいはスミスにマルクスの認識を重ねあわせるようにして、理念化した形で取り出された「市民社会」の概念が、戦中戦後を通して、あるべき姿のままに現れた近代の範型として語られたのだ。
本書の最終章は、見田宗介にあてられている。一般的に見田は市民社会派には属していないとされているが、彼も最初期の頃にはマルクスの精密な読解を通して社会構想を練っていた。しかし、内田や平田とは違って、見田にはスミスの発展段階論、唯物史観といった、歴史哲学的前提はない。市民社会にはむしろ、否定的なコノテーションが置かれる。市民社会は、自己にとって潜在的な危険である他者をルールをもって統制し、魂の自由の領域――交響圏あるいは交響するコミューン――を保護するものとしてあるにすぎない。確かに、市民社会論の系譜のなかに見田宗介を置くことは違和感があるが、筆者の論述を通して、つまりその系譜において彼を見れば、彼が市民社会論からいかに距離を取りつつ、そこから自分の理論を展開させていったのかということがよく分かる。
筆者の筆致は冷めていながら熱い。かつての市民社会論を短絡的に批判して終わらせるのでもなく、それを復活させようとするのでもなく、ひとつの言わば歴史的な自己理解のカテゴリーとして市民社会概念を捉え、いかにして戦後、あるべき近代の社会構想が練られてきたのか、その理路を丁寧に見届けるのである。この分野の話は概して苦手なのだが、本書を読んで、内田義彦を読み返してみたくなったし、見田宗介の初期著作に実際再びあたりもした。戦後70年のあいだに市民社会という概念を通して語られようとした(そして頓挫した)近代的な理念のあり方を振り返り、現在、どのような理念的構想が可能なのか、それはどのようにして調達されうるのか、このようなことを考えさせられるものである。歴史というものは、そうした現在への視線を変化させる効用を持つということ、このことを筆者は実践を通して示している。