読書日記20冊目 『ヘイト・スピーチという危害』ジェレミー・ウォルドロン

ヘイト・スピーチという危害

ヘイト・スピーチという危害

ヘイト・スピーチを規制する立法については、日本のリベラルのあいだでは意見の相違があるが、アメリカの文脈では合衆国憲法修正第一条のために、ほとんどが反対にまわっているという。本書は、そのような文脈のなか、ヘイトスピーチに対する規制の立法をいかに擁護できるかを考察する論争的な書物である。議論は錯綜しているが、じっくりと腰を据えて読むに足るものである。
はじめて在特会ヘイトスピーチの動画を見たとき、僕は言論の自由を念頭に置きつつ、やはり寛容は非寛容にも寛容であるべきで...と思っていたが、本書の見方には納得させられるところが多い。ウォルドロンによれば、ヘイトスピーチはその対象となるマイノリティから安心して暮らしていくという市民としてあたえられるべき権利を破壊するだけでなく、それが言説として流布され、あるいは恒常的な形で街頭で繰り返されることで、社会の一部となる、というちょっと考えれば分かるが、おぞましい帰結を生む。ウォルドロンはむしろ唯物的に考えている。ヘイトスピーチが言説として出版され街頭に貼られることで、実際にそれらは社会の一部を構成するのだ。
ヘイトスピーチは市民としての尊厳を破壊しよう、それに危害を加えようとするスピーチ・アクトとして理解されねばならない。ウォルドロンの立場は、帰結だけ見れば明確なものだが、しかしそこには誠実さゆえに生じる議論の難しさもある。つまり、ウォルドロンはヘイトスピーチを規制する法律が、確かに言論の自由を毀損するということを認める。このトレード・オフの関係を考量することこそが粘り強い思考の一部となるべきだとするのである。
言論の自由に関連して、もう一つ僕が不安に思っていたのは、言論の自由ヘイトスピーチへの規制という形で制限することによって、民主主義的な手続きの一部にも悪影響があるのではないかということだった。言い換えれば、それは民主主義国家における正統性(legitimacy)の問題に関連する。民主主義的な立法過程において、言論の自由は法の正統性を担保するメタな規範として機能している。そのため、ヘイトスピーチの規制のトレードオフとして言論の自由を制限すれば、公共的な言論を通じて制定される法の正統性が阻害されるのではないか、と考えていたのだった。本書でウォルドロンは、そうした見解を代表する論者として、ロナルド・ドゥオーキンの議論を取り上げて反論を加える。正統性が毀損されるというとき、それは具体的には一体何を意味しているのか。詳述しないけれども、ウォルドロンの反駁はかなり説得的なものだと思った。
本書には、アメリカにおけるヘイトスピーチ規制の反対派であるリベラルが持つ欺瞞(と言ってもいいだろうか)に対する、冷静な怒りがある。例えば、彼が行っているエドウィン・ベイカーへの反論の一部は、当たり前のことだがはっとさせるようなものである。ベイカーによれば、「ある話し手の人種差別主義の罵言が...聞き手に危害を与えるのは、彼女がメッセージを理解することによってのみである。...[聞き手が危害を感じるのは]聞き手が(心理的に)ある特定の仕方で、たとえば話し手に対する批判者としてではなくて話し手の被害者として、反応する限りにおいてである。深刻な危害が起こるのは予想されうるし理解可能なことであるが、にもかかわらず、聞き手が手に入った情報を肯定的なアイデンティティを創造ないし維持するために用いる可能性はいつでも存在する。」
これに対してウォルドロンは言う。

[しかし、聞き手である]彼女は――私の見解では――話し手の言葉のなかに聞き取らざるをえない罵倒的で排除的なメッセージによって気力をくじかれることもありうる。その一方で彼女は、批判者としての断固とした姿勢で立ち向かい、しっかりした立場を持った社会の成員の一人としての役割を、その地位を傷つけようとする人種差別主義者の最善の努力にもかかわらず、果たそうとすることもありうる。彼女がそうできることに疑いの余地はない。しかし、社会によってその成員すべてに与えられる、彼らの普通の尊厳を支える一般的で暗黙的な安心の要点とはそもそも何か。それは、社会の成員にとって、今や彼らに対して部分的にせよ敵対的な環境としてもののなかで、苦労して勇気を奮い起こし、頑張って活躍しようとすることなど必要であるべきではない、ということである。人種差別主義者によって伝えられたメッセージがすでに彼らを守勢に回らせ、不利な状況にもかかわらず努力して普通の市民として振る舞おうという不屈の決意をするために彼らが日常の仕事から注意をそらされるかぎりにおいて――そのかぎりで、人種差別主義者の言論はすでにその破壊的な狙いの一つを達成しているのである。

ヘイトスピーチの規制は、おそらく「ヘイト」の感覚を根絶させるものではないが、少なくともヘイトの対象になった人らに尊厳を回復させようとする試みの一つとして理解される。言論として出版されたり、あるいは壁紙としてはられたり、またあるいは例えば毎週日曜日になるときまって街頭で垂れ流されたりするヘイトスピーチは、社会の一部を構成する、半永久的に。ヘイトスピーチを向けられているのではないがそれに加担するのでもない人らは、そのような社会を許して良いのか。もちろんヘイトに対するカウンターは、ヘイトスピーチをする人らを圧倒するだけでなく、それを取り巻く通りすがりの人らにとってもどちらに正しさがあるのかを理解させる点で効果が期待できる(従事されている人らは本当に偉いと思う)。しかし、ヘイトに対してカウンターが市民の間でなされることに期待するのは、ヘイトの対象となっている人らに批判者として立ち上がるのを期待することと同様に、「市民社会」に対するナイーブな(というか要求度の高い)楽観主義として考えなければならないのかもしれない。法規制は少なくとも、社会を構成する一部としてそのようなヘイトがマテリアルに存在することを制限する。法ができるのは、ここまでかもしれないし、あるいは法に記されたことはある種の道徳的規範として受け止められがちだということを考えれば、それ以上の効果が期待できるかもしれない。