'13読書日記27冊目 『立法者の科学:デイヴィッド・ヒュームとアダム・スミスの自然法学』クヌート・ホーコンセン

立法者の科学―デイヴィド・ヒュームとアダム・スミスの自然法学 (MINERVA人文・社会科学叢書)

立法者の科学―デイヴィド・ヒュームとアダム・スミスの自然法学 (MINERVA人文・社会科学叢書)

282p
ヒュームの正義論から説き起こし、その問題点の解決をスミスに認めるという議論の構成になっている。ホーコンセンは、どちらにも共通する問題として自然法の問題をあげ、とりわけスミスの法学を特徴付けているという「立法者の科学」を再構築してみせる。
スミスの法学は、生前に出版されたものではなく、講義ノートという形で死後整理されてきた。その講義ノートに含まれるスミスの法学は、ホーコンセンによれば『道徳感情論』における公平な観察者の議論に基づいている。スミスは経験的な観察を通じて共感のメカニズムを解き明かすだけでなく、そこから一般的な正義の原理として自然法と従来呼ばれてきたものが創出されてくる様子さえも明らかにしているのである。こうした研究への動機は、ヒュームの提起した問題――「もし自然あるいは神のいずれからも規準が与えられない場合、法律批判はいかにして可能か、すなわち完全な相対主義はいかにして回避されるか」――から出てきているという。ヒューム、スミスにおいて問題となっているのは、どんな社会状況にあっても目標として追求可能な原理を発見するということであった。ここにおいて立法者の「科学」が成立する土台が出てくる。つまり、ヒュームもスミスも、方法論的に情念・共感といった心理的作用を含めた社会科学の一つとして、法学を構想しているのだ。彼らはそこにおいて社会を成り立たせる原理としての正義が、いかなる経験的な条件のもとで出てくるかを探求した。重要であるのは、人間の心理的状態と、その人間が取り巻かれている外的状況を判断し、そこから正義の導出プロセスを認識するということである。
ヒュームにとってそうした正義は所有権の定立という非契約的な黙約であり、スミスにとっては統治者によって自然権としての自由が確保された状態であった。彼らに特徴的なのは、一般的な原理として正義が人類史的に、つまり歴史を通して現れてくる過程を描くことで、現在の実体法的状況を理解し、その一般的原理の観点からそれを批判しようとしたことである。正義は意図せざる結果――つまりこれまで理解されてきたような理性による産物であるとか、神の与えたものとかいうことではなく――から出てきている。
ホーコンセンによれば、ヒュームは正義の原理がいかにして大人数の社会――ゲマインシャフトではなくゲゼルシャフトのような匿名の社会――においても成り立つのかを、仲間感情という魔法のような原理で解決してしまった。それに対して、スミスはその仲間感情を公平な観察者の原理によって解決しようとしたというのである。スミスは公平な観察者という視点が出てくることを、ヒュームよりも一層経験的に――それゆえ『道徳感情論』は複雑な叙述が多くなるのだが――説明することができた。スミスにとって、この絶対的に公平であろうという観察者の視点を獲得しようとする行為そのものが、社会生活を成り立たせている。したがって、公平な観察者の立場から普遍的(とまではいかないにせよ一般的な)共感が得られるような原理こそが、正義として考えられる。それは、スミスにとって消極的な徳である。すなわち、他者への危害を与えない、他者の所有を奪わないというこれまで自然法として扱われてきた事柄である。こうした自然法学の再構成こそがスミスにおいて根源的であり、『国富論』においても通底する議論であることをホーコンセンは確認する。スミスの研究書でありながら、「神の見えざる手」の議論はほとんどないというのは面白いことだが、それは彼の政治経済学的な議論においても自然法学が優位にあると位置づけたいからなのだろう。
こうしたことは、スミスの「立法者」における議論とも一致しているという。一方でスミスは「体系の人」として、チェス盤のチェスを動かすように自分勝手で批判的な意味での思弁的な計画をねってそれを実行する政治家を批判する。「体系の人」に対置されるのは、真に公共精神にあふれた人である。『道徳感情論』によれば

彼は自分の公共的施策を人々の確立した習慣と偏見に適合させる意志も能力も持っており、また民衆が守るのを嫌がる規則でもそれがないために不都合が生じれば、それを是正する意志も能力も有しているであろう。正しいことを定立する能力がなければ、間違ったことをただす意志もないだろう。

つまり、スミスはユートピア的な政策を掲げる政治家(例えば『国富論』における重農主義者)を批判し、それに対して民衆の反応を見ながら漸進的に改革を進める政治家を肯定しているのである(僕はここにカントを見た!)。
しかし、他方でスミスは――こうしたところがその複雑さの所以だが――体系の人が構想した政治的理念を単純に否定しているわけではない。というのも、スミスはそうした政治的計画が民衆の政治的啓蒙につながると考えているからである。体系的、すなわち正しく合理的で実際的であれば、その政治的計画は民衆の公共精神を喚起し、また政治的狂信や党派的闘争を冷静に見ることができるというのだ。では、そうした教育的効果さえ持つ体系性、あるいはすなわち一般原理とは何か。それこそ、ホーコンセンによれば正義の原理、自然的自由なのである。

スミスは『国富論』のなかの有名な文章で、真の立法者の資質と通常の政治家の資質を対比している。すなわち、一方では「立法者の科学という場合の立法者の熟慮は、常に同一の一般原理に規定されるべきである」。それにたいして「俗に政治家とか政策家と呼ばれる狡猾悪辣な動物の技術がある」。〔…〕立法者はここでは明らかに公共精神の人であって、「政策と法律の完全化という、一般的そして体系的でさえある観念」の啓発と、具体的弊害除去のための漸進的な行動との間の完全なスミス的均衡をとるであろう。「彼は、正しいことを確立できなければ、民衆が耐えられる最良のものを確立することに努めるであろう。」法律と統治との一般原理を理解しているから、立法者は最も一般的な正義に基づき、消極的正義を最優先させて行為するだろう。

ホーコンセンが提示するスミスの立法者の統治原理は、いわばロールズの反省的均衡を政治過程に移し替えたものと読める。ホーコンセンの議論がどれくらいスミス研究者に受け入れられているのかはわからないけれども、彼は単に叙述的でなく哲学的にヒュームとスミスの議論を追っていき、スミスの政治学の根底にある自然法的思想の重要性を引き出しており、読んでいるうちに様々なことを考えさせられる研究書となっている。(と疲れたので無理やり無難な言葉でまとめ終える)