'13読書日記26冊目 『門』夏目漱石

門 (新潮文庫)

門 (新潮文庫)

門

kindle版で読了。青空文庫からキンドルに移された無料本が結構あって楽しめる。もちろん読むのにはなんの問題もなく、フォントも行間も見やすい。
漱石は、気づけば年に一回くらいはなんかを読んでいて、ブログを見返してみたら、『こころ』、『行人』、『彼岸過迄』、『それから』、『二百二十日/野分』と脈絡も、三部作とかもあんまり無視して気になるものをその時々に読んでいた。『ぼっちゃん』とか『吾輩は猫である』はなんか読む気にはなれへんねやけども、きっと読めば面白いのであろう。
『門』では『こころ』とともに(他の作品にも共通してるのかもしれんけど)、過去の罪に主体が縛られているさまが描かれてる。しかし、『門』は『こころ』よりも前に書かれているのだけれど、『こころ』よりもモダンを超克したようなもの、つまりポストモダン的なものとして読める。『こころ』では、先生は手紙の中で明治の精神に殉死すると言って、長々とした手紙の中で過去の罪の告解を行う。それは「真面目」であろうとする主人公に向けて書かれたものだ。過去の罪を告白することで、先生は彼にとっての隠されてきた真実と向き合い、それを言うことによって死ななければならなかった。隠されてきた罪の告白とそれによる主体の完成=死という弁証法が機能していて、僕などはついハイデガーを強く想起してしまう。大学1回生くらいのときに読んで異常な感動を覚えたものだ。ところが、『門』ではそうした罪の告白と主体の完成という弁証法は停止させられる。主人公は罪と向き合うことを徹底して避けようとする。そこにもろい近代的自我あるいはプチブル的自我をみることもできるかもしれない。しかし、ことはそれほど単純ではない。主人公は確かに罪を意識し苦悩し、それを克服するために禅寺へ行く。禅僧に出された公案は、「父母未生以前、本来の面目は何か」というものである。彼はその本来性についての答えを小賢しく頭ででっちあげることはできるが、禅僧にはすぐにそれを見破られる。結局、彼はその問に答えることはできないと諦めてしまう。

自分は門を開けてもらいに来た。けれども門番は扉の向こう側にいて、たたいてもついに顔さえだしてくれなかった。ただ、「たたいても駄目だ。独りで開けて入れ」という声が聞こえただけであった。

主人公は本来性への問いに、小賢しい分別で答えようとするが、それは答えではないことを自覚している。

そうしてはじめから取捨も商量も容れない愚なものの一徹一図を羨んだ。もしくは信念に篤い善男善女の、知恵も忘れ思議も浮かばぬ精進の程度を崇高と仰いだ。彼自身は長く門外に佇むべき運命をもって生まれてきたものらしかった。

ここでは『こころ』で提示された「真面目さ」は、主人公にとっては届き得ないものとして現れている。しかし、主人公はたとえばハイデガーのダス・マンのように本来性への問いなどに見向きもせず、そんなものなどないと言い切るようなこともできない。

彼は後ろを顧みた。前には堅固な扉がいつまでも展望を遮っていた。彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。

つまり、彼は本来性へ疎外されている。本来性へ疎外されているからこそ、本来性から疎外されてしまう。門は決して開かない。しかし、彼はそれを自らの運命として甘受する。罪の告白は先延ばしにされ(小説の中では罪の具体的な描写は一切ない)、同時に主体の完成も先延ばしにされる。彼は禅寺をはなれ、再び俗世へ帰っていく。そこでは妻との二人だけで自足したのどかな生活が待っている。過去の罪が思わぬときに目の前に現れて、彼を不安にさせるかもしれないが、それはまた徹底して回避され、決まりきった毎日が守られる。漱石の筆致には皮肉なところはなく、ただそうしたものとして、主体(ポストモダン的には斜線付きSとでも書きたくなるけど笑)は生成しない。