人間の生存権をめぐるメモ

私的メモ。このメモは、自分の中での考えを整理したものであって、暫定的な結論である。このことに関する問題について、私は専門的に研究しているわけではないし、ずっと考え続けてきたわけではない。言い訳めくが、これはこれからの自分の議論の叩き台として提示されるものである。

  • 生存権について。生存権が意味するのは、ある有機的存在の生が、他のものから奪われることなく存続することができる権利である。
  • そもそも生存権は何のために考えられたのか。生存権は、自然法自然権とは異なって理解されねばならない。その根本的な発想は立憲主義リベラリズムにある。結論を言えば、生存権は、異なった価値観を持つ人々が共同生活を営むために発見した概念である。悲惨な宗教戦争の後に、どのようにすれば悲惨さを回避できるのかということが考えられた。その解決は、第一に、政治に限定を課することである。政治は、個人の私的な価値観(宗教など)の領域に口を出さず、他人に危害を加えない限り(危害原理)個人の自由に任せなければならない。第二の解決策は、第一の解決の裏返しとして、政治が保障すべき領域を限定することである。政治が介入すべき領域は、すべての人に共通していなければならない。そこで、すべての人に共通する事柄として考えられたのが、「生存」であった。このようにして、リベラリズムは、人々が共同生活を営むために、生存権=人権を設定してきた。生存権は、自然状態で神から授けられる、自然で所与の権利ではない。ある社会領域内で人々が平和的に共存するために、設定されたフィクションであり、社会構造の原理である。
  • 繰り返せば、生存権は、ある領域内の人民同士が闘争状態に陥るのを防ぎ、平和裏に社会生活を営むために用いられた、いわば道具である。
  • しかし生存権としての人権は最初からすべての人間に与えられてきたのではなく、ある限定のもとに付与され、その範囲が次第に拡大されたのだった。白人男性、白人女性、黒人・・・という風に。、
  • 生存の権利right to lifeは明確に「権利」の語彙を採用している。ところで、「権利」の概念には二つの観点が前提とされている。一つ目は、包摂/排除の観点である。二つ目は、行為の帰結に対する責任能力についての観点である。
  • 第一の包摂/排除の観点について。見たように、ある集団内を平和的に存続させるために、政府によって社会内の人民の生存権が保証される必要があった。しかし、同時にそれは集団外部の人間の生存については保証しないということも意味している。例えば、18C以前において黒人や女性は、白人男性社会にとって外部であり、守るに値しない生とされた。歴史的に見れば、女性や黒人は、自ら社会的権力のある白人男性集団に対して、抗議運動を起こし、自らも同じ共同体の一員であることを力づくで認めさせてきた(白人男性が本当に女性や黒人を同じ共同体の一員だと認め、それゆえにその生存を保証しなければならないと思い至ったかは分からないし、むしろ、女性や黒人に生存権を認めなければ、共同体の平和的な存続が危ぶまれるというsecurityの観点からそうしたとしても)。
  • とはいえ、そもそも権利の概念は、包摂/排除がなければ意味を成さない。すべての権利は、「特権」である。権利が付与されるということは、何らかの行為をする自由が許されるということを意味している。「許される」ということに着目して考えなければいけない。ある行為を許される者は、ある行為を許されない者の存在を前提にしている。そこには明確な区別・排除がある。「権利」という概念は、そもそも包摂/排除の区別がなければ意味を成さない。例えば、大学の図書館を利用出来る「権利」は大学の職員や学生だけに与えられている。仮に、すべての人が大学図書館を利用することが許可されているのならば、そのときには「権利」という語彙は必要あるまい。
  • では、すべての人間に与えられる「権利」としての「人権」は、単にレトリックにすぎないことにならないだろうか。すべての人に許されているのであれば、生存権というものを設定する必要があるのか、いや、生得権は何らかの有効性を持つことができるだろうか。これが第一の疑問である。
  • 権利の概念の第二の観点は、ある行為の責任というものである。ある行為の帰結に対する責任を問うことができるのは、その行為を自由意志で、すなわち自分の自発的・能動的な意志によって遂行したという限りにおいてである。言い換えれば、他の行動の選択肢を選べたにもかかわらずその行為を選択したという場合にのみ、責任を問うことができる。逆に言えば、その行為しか選択する能力がない場合には責任を問うても無意味である。例えば、天才的な催眠術師の催眠にかかって、他人を殺すように仕向けられた人に対してその殺人の責任を問うことはできない。判断能力のない子供や精神病の人に対しては、責任を問うことは無意味である。
  • だが、そうなると、責任能力を問うことのできない子供や精神病の患者には、生存権は与えられないということにはならないだろうか。これが第二の疑問である。
  • 第二の疑問から解消しよう。そのためには、生存権を所有権や信教・表現などの自由の権利といった他の権利から区別して考える必要がある。生存権において、他の権利と異なっているのは、それは選択という行為には関わっていない部分があるということである。生きるということ、あるいは「生」そのものは、選択の有無に関係しない部分を含んでいる。生命・生存は、なんら自分の意志で選択していない時にも継続されているものである。例えば、人は一週間位なら飲み食いという行為を選択しなくても生存していられる(その後は死んでしまうかもしれないにしても)。ここで、便宜的に人の生を二つに、すなわち、「能動的な生」と「受動的な生」とに区分してみよう。能動的な生とは、食べたり飲んだりすることを自分で選択して継続されるものであり、受動的な生は、なにも選択することなしに持続する部分である。心肺機能は、受動的な生の根源をなすものであり、それは不随意筋と呼ばれる。生まれたての赤ん坊は純粋な受動的生の状態にある。赤子は自分で生存のために何かを意志し行為する能力を持たない。もっと遡れば、胎芽状態にある生は究極的に純粋な受動性を生きている。また、その逆に、生命がその寿命を全うしようとするとき、病気であれ天命であれ、そのときには受動的な生のもとにある。能動的な生は、子どもが自意識を持つようになり、死の直前に意識を失うまでの間だけ継続されるものだ。つまり、受動的な生は能動的な生を覆っているのであり、言い換えれば、受動的な生の上に能動的な生が可能になっているのである。
  • それゆえ、生存の権利の対象範囲は、生の能動性だけではなく、それを可能にしている受動性にまで及ぶ。いや、むしろ、それは能動的生を対象にしているというよりは、受動的生こそを対象にしているのだ。子供や精神障害者らは、受動的生のもとにある〈人間〉である。繰り返せば、生の能動性は受動性の上に成り立つものであり、誰しも〈人間〉であれば受動的な生の状態なしには〈人間〉たりえない、つまり能動的にはなりえない。とすれば、子供や精神障害者らをその能動性の欠如に置いて、生存権の範囲から外して良いはずがない。
  • これには、二つの反論がありえる。第一の反論は、子供は将来能動的に自分の生を選択できる可能性があるのに対し、先天的あるいは後天的に精神障害者である人は将来の能動性が見込めない。それゆえ、精神障害者には生存権を認めることはできない、というものである。
  • しかし、この反論には三つの点で不備がある。一つは、最近の脳科学の知見によれば、「正常」だと認められるあらゆる人の脳は、何らかの感覚的刺激によって反射的に身体を行為させており、その僅か0コンマコンマ何秒か後に「自分はこの行為を望んで選択した」と思うような脳構造を持っているということである。とすれば、正常者であれ精神障害者であれ、能動的に生を営んでいることにはならず、正常/異常で生存権を区分することは恣意的である。
  • 二つ目には、仮に脳科学の知見を信じないとしても、「精神障害者」と断定される基準は、社会的な規範によって左右され、必ずしも科学的には判定できないということである。脳科学にはアンチの立場をとりながら、精神異常の判定を下す科学には賛成するという立場には一貫性がない。かつてアジア人や黒人は、野蛮で非理性的であり選択能力にかけると思われていた。だが、そのような科学的知見は社会的に仮構されたものでしかなかったのだ。同様に、精神障害者を判定する基準も社会的に左右されるものであり、客観性を欠いている可能性がある。能動性/受動性の区分は、恣意的に為される傾向があるのだ。
  • 第三に、仮に精神障害者の判定基準が客観的・科学的に存在したとしても、なお受動的生のみを生きる〈人間〉に生存を保証する義務、すなわち生存権を与えるべき理由がある。上記の反論――能動的生を生きるものにしか生存権を認めることはできない――を述べる人が、前提としているのは、能動的選択においてのみ責任を問うことができるのであり、それだからこそ、生存欲求を満たすために殺人を犯しカニヴァリズムを行うことは認められず、その責任を取ることが要求されるということである。より簡潔に言えば、権利が権利であるためには、人間の能動性こそが重要であり、生存でさえも能動的に選択することができる(何かを食べたり飲んだりしようと意志することができる)のでなければ、権利として付与することはできないということだ。
  • だが、この前提は四つの意味で間違っている。第一に、この前提は自らの能動性を過大に見積もってしまっている。自分の生存の能動性を前提に考える人が見落としているのは、その能動性はまったき受動性によって成立しているということである。まったき受動性とは、出産のそれである。あなたが今ここに生を続けている最も原初的な根拠は、自分の能動性にあるのではなく、そうではなく、自分が望んでもいないのに産み落とされたという受動性にあるのだ。誕生の受動性がなければ、生の能動性はありえなかったのである。
  • 第二に、生の能動性を基準に生存権を考える人は、自分の生命には自己所有して当然だ、自己所有権があるという前提にたっているかぎりで誤っている。所有とはなんだろうか。どの所有が正当な所有であると認められるだろうか。ある物の所有が正当にある人に認められる要件は、かなり限定される。所有の正当性は自分の能力――先天的・後天的を問わないとして――のみによって獲得された物に限られる。例えば、自分で土地に種を巻き収穫した作物は、その人の正当な所有物である。また、自分が持っているお金で市場価格で何か商品を購入したとき、それは正当な所有物である。だが、誰か他人を賃金を払わずに強制労働させて得た作物は正当な所有物だと言えるだろうか。また、脅迫や暴力によって不当に商品を強奪するとしたらそれは正当だろうか。とすれば、あなたの生命は、まったく自分の正当な所有物だとは言い切れない。というのも、あなたの生命は自分で自分の能力のみで獲得されたものではまったくなく、むしろ両親によって産み落とされた他律的・受動的な産物だからだ。では、それゆえに生存権は不正義になるのであろうか。ここでは、生存権と生命の自己所有権を切り離して考える必要がある。生命はだれであれ正当に自己所有されえる類のものではない。なにしろそれは、自分の能力で獲得された所有物ではないからだ。そうでなくむしろ、最初に述べたように、生存権は、人間が共同で平和的に生活を行うために仮構した社会の保存原理である。つまり、人間の生存が保証されるのは、自分の生命を自己所有しているからではないのだ。
  • 第三に、生の能動性によってのみ生存権を考えることで、生存欲求と生の能動性は異なる概念だということが見過ごされる。能動的な生を歩む人にのみ生存権が与えられるという考え方の根拠には、自分は生存欲求に従って生の選択を行なっているという考え方がある。だが、生存欲求そのものは決して能動的ではない。生存欲求は本能なのだ。食欲や排泄欲は、文化的なものではなくそれこそ自然的・動物的なものである。食欲や排泄欲は、選択して現れるものではない。生存欲求は純粋な受動性の位相にあるのだ。だとすれば、将来、自分が受動的な生を生きざるを得なくなった状況では、生存欲求がありえないと考えることは合理的な判断ではない。仮に、受動的な生のもとでは生存欲求がないと考えるのだとすれば、生存欲求という語の定義を取り違えているに過ぎない。
  • 第四に、自らが今能動的に生を送っているということを根拠に、受動的にしか生を営めない人に生存権を付与しないことは、みずからの過去の偶有性を全く無視してしまっている。生存権が付与される理由は、社会で人々が平和に共存していくことを可能にするからであった。だが、その社会の一員となる前提には偶有性の大きな淵が存在している。社会の一員になるためには、もっと言えば能動的に生を送る能力を持った人になるためには、偶有性の選抜を受けなければならない。それは、受動的な生しか送ることができなかったかもしれないという偶有性だ。今あなたが能動的生を送ることができるのは、最初から能動的生を歩んでいるからではない。そうではなく、受動的か能動的かという偶然の選択肢の中から、たまたま能動的な生を送ることができたのである。しかも、能動的生を送るということは、あなたの能動的選択によって為されたものではない。むしろ、まったくの偶然性によってあなたは能動的な生を送ることが出来ている。まとめれば、能動的生を送るためには、偶有性を潜り抜けねばならなかったということ、偶有性があるからこそ能動的生を送ることが出来ているということ、これを理解することが肝要である。すなわち、社会が安定して存続するということ以前に、社会が造られるためには、どうしても偶有的な生の可能性がなければならなかったし、それゆえに自らがそうありえたかもしれない受動的な生にも生存権を与えられなければならない(そうでなければ、そもそも社会は現れなかっただろう)。
  • 遠回りしたが、問題となっていたのは、受動的な生にも生存権を付与すべきだとする我々の議論への二つの反論を考えることであった。一つ目の反論は以上のようなものである。二つ目の反論は、なお深刻である。それは、受動的な生に生存権を付与すべきなのだとしたら、動物や植物にも生存権が与えられるべきではないか、というものである。実際、受動的な生は、能動的な生を〈人間的〉とするなら、それは〈動物的〉〈自然的〉なものである。なぜ人間にだけ生存権が与えられ、動植物には与えられないのか、これが第二の反論である。
  • 議論を整理しておけば、そもそも生存権に対して二つの疑問が考えられるということであった。それは、第一に、権利が排除/包摂を前提にしなければ意味を成さないものであるなら、すべての人に生存権を与えるということは「権利」の定義を犯すのではないかというものであり、また、第二に、責任能力を問うことができない〈人間〉には生存権は与えられないのではないか、というものであった。いま、第二の問いに関してさらなる問いが加えられ、それは人間にのみ生存権与えられていいのか、動植物にも与えられるべきではないか、というものであった。ここで、この問いに答えるために、同時に第一の問いをも参照する必要がある。
  • 権利は、包摂/排除がなければ、意味を成さないものであった。それゆえ、すべての人の権利とは、権利ではなく単なるレトリック=価値判断にすぎないのではないか、これが第一の問いである。だが、しかし、すべての人間が、受動的・能動的を問わず生を送る権利を持つということを成り立たせる、唯一の排除がありえる。それは、動植物を排除するということである。動植物には、生存権は与えられない。動植物と人間を区別することで、すべての人間、類としての人間に生存権を与えるということが意味を成すようになる。
  • ところで、生存権自然権とみなすことはどうして否定されるのか。それは、人間に生来的に与えられている権利などはないからである。仮に、アマゾンの中で産み落とされた一人の子供が、他の人間との交わりを一切持たず、動物に食い殺されたとしても、その動物を処罰したり不当だとみなすことはできないだろう。権利とは、ある法支配のもとで設定されるフィクションにほかならなず、特に生存の権利が設定される理由は、それを設定しなければ社会において平和的な共存が不可能だからである。
  • 重要だから繰り返せば、生存権が設定される理由は、人間同士が平和的に共存するためである。それは一種の社会存続のための契約だとみなしてもいい。しかし、それが厳密には契約ではなく、強制的な権利=義務であるのは、そうでなければ社会生活が平和に営まれないからである。仮に、生存権を契約だとすれば、契約に参加しない人が出てくるかもしれない。その人は自らの生存が誰かに犯されることを厭わない代わりに、契約を相互に結び交わした社会のメンバーに対して攻撃を仕掛けてくるかもしれない。そうなれば、いくら相互に生存権という契約を交わした社会であったとしても、平和を続けていくことは不可能である。それゆえ、生存権は強制的に人間すべてをカバーしなければならない。第一、社会の外部は存在しないし、純粋な自然状態も存在しない。人間が相互に交わることが、直接的に社会を形成する。
  • しかし、あらゆるすべての有機的存在に生存権を与えるということは、自然権と同様の袋小路をもたらす。あらゆるすべての有機的存在に「権利」を付与するということは、「権利」という定義自体を掘り崩してしまう。それゆえ、どこかに線引きが為されないといけない。その線引きは人間かそうでないか、という区分である。生存権設定の目的は、人間社会が十分平和に営まれることにあった。それゆえ、人間社会に含まれない動植物・自然には権利を付与しないという排除を行うのである。
  • しかし、人間と動物の区別は困難である。それは西洋哲学がずっと考察し、いまだ答えを出せないでいる問題である。仮に、理性的存在か否かを基準とした場合、上で見たように、子供や精神障害者は人間ではなくなってしまう。言語や社会性についても同様である。しかし、もっと簡単に考えれば――そしてこれこそ重要な点なのだが――人間と動物の区別をつけることができる。それは出生・誕生にまつわることである。はっきり言おう、人間から生まれた存在は人間である。これ以上の簡単な人間の定義は見当たらないだろう。それが、唯一の人間と動物の区別である。
  • ところで、以上のように生存権を規定するだけでは、実際にはまだ不十分である。リベラリズムの原理、つまり社会構造の安定化の原理として生存権を確定するだけでは十分ではないのだ。例えば、ある社会が白人のみに生存権を与える場合、白人だけの安定を模索するがゆえに黒人には生存権を与えなくても良い、ということを正当化してしまう可能性が残ってしまうのである。
  • 生存権がすべての人に認められねばならない理由は、上記のリベラリズムの原理に加えて、正当性(正統性legitimacy)の観点から解き明かされる。生存権がレトリックたりえないのは、それを保証する法が存在する限りである。だが、生存権を保証する法の範囲が、社会内のある人々だけに限定されていたとしたらどうだろうか。法の正統性は、このことに関わっている。つまり、ある法の正統性の究極の根拠は、社会の構成員全ての同意に賭けられているのである。社会に一定数のマイノリティが存在し、社会内で生活を営んでいる限り――すなわち他のマジョリティとも市場やコミュニケーションを介して交流している限り――そのマイノリティを排除した生存権を保証する法は、正統性を欠いているのだ。
  • 正統性という概念は、もちろん法学上の(すなわち権利上の)ものである。正統さというのは、その法に従う根拠を提供している。言い換えれば、ある法が命じる内容に服従する正当な理由こそが、正統性にほかならない。ところで、マジョリティにマイノリティが服従しなければならない理由は、どうやっても正当化不可能である。多数者に少数者が服従しなければならない状態は、正統性を欠いているのである。ある法に服従しなければならない正統な理由は、社会の成員全ての賛同にこそある。

以下断片。

  • 「弱肉強食」は自然法則なのか? 何をもって「強者」と言っているのか?それは人間が与えた法則性なのであって、自然自体がそうなっているとは分からないのではないのではないか?
  • 仮に自然には、人間には感知できない「弱肉強食」の法則があったとしても、動植物には「差別」の発想は生まれない。動植物が本能で動いているものだとすれば、あるいは譲歩して、人間には劣るが理性的な存在者であったとしても、誰を弱者とするかという選別は行われない。差別は人間社会・人間の文化の中で構築されたものであり、先天的な「弱者」という選別は、「自然」の中では行われ得ない。
  • 「弱肉強食」で何が意味されているか?強者は生き残る権利がある(A)ということか、強者は生き残ることができる(B)ということか、生き残った者が強者である(C)ということか?
  • (A)強者が生き残らねばならないのはなぜか? 強者が生き残るというのは単純に優生思想である。どうして人間の種を優れたものにせねばならないのか。そのために自らを強者とし他者を弱者として区別する理由は何か。どうして人間という種を存続させなければならないのか。このことに、正当な根拠を持って答えられる優生思想は無い。根拠と以て答えられるとしたら、それはリベラリズムの原則と反するものになる。
  • (B)(C)だれが強者なのか。力のあるものが強者なのか。「力」が自分だけの努力や原因によって(他の何の原因にもよらない)何らかの能力のことを指すとしよう。とすると強者は、自分だけの力・能力によって、生きることができる者だということになる。しかし、自分だけの能力のみによって、あるいはもっと広く自分の意志の選択のみによって、現在の自分が形作られているというのは傲慢だ。社会的・文化的要因、生まれや育ちによって「力」は決定される。しかし、それは最初に定めた「力」の定義――自分の努力や原因によって得た能力――に反する。徒競走を考えれば良い。そこで純粋に「力」のあるものを決めようとすれば、全裸での競争が必要になる。抵抗の少ないウェアを買う金があるということは「力」の定義に反するし、ドーピングについても同様である。
  • 結局、社会の説明の語彙として「弱肉強食」を採用することは危険である。(A)に関して言えばそれは単純に優生思想であるし、(B)(C)にしても、わざわざ「強者」と「弱者」という価値判断が入ったようなニュートラルではない言葉を使う必要性はない。強/弱という判断には、容易に価値判断が入り込む。それは「生き残ることができない」者は弱者であり価値が劣っているというところから、さらに進んで、弱者は生き残らなくても良いという優生思想へと回帰してしまう。
  • 動物に権利があるかどうかは、選択能力・自由意志の有無を権利と認めるかどうかに関わる。権利は、自由意志の前提を必要とする。が、人間の選択能力・自由意志は、剥き出しの生(受動的な生)の上に成立している。剥き出しの生、胎児、脳死。剥き出しの生を<動物>に回収(し、それは殺害可能であると)するか、剥き出しの生こそ<人間>の前提となるものだとするか、そこには例外状況の恣意性が広がっている(例えば、胎芽は<人間>なのか、脳死者は<人間>なのか、という領域では議論がなされ続けている)。が、もっと単純に考えて、人間が人間たりうるのは、人間から生まれてきたということそれだけにほかならない。
  • 人間を定義するとき、あるいは人間と動物の区別を言い表すとき、人間とは違うもの=動物、動物とは違うもの=人間とすることによって、つねにすでに「人間」の定義は、自己撞着を起こしていることになる。
  • マイノリティの権利を主張するなら、動物の権利を主張せねばならないのだろうか。あるいは、動物に権利が認められねばならないのであれば、マイノリティにも権利を認める必要はないのだろうか? マイノリティが社会の成員の一人である以上、上記のリベラリズムと法の正統性の観点から、そのような問は退けられねばならない。
  • マイノリティの中でも、障害者の《障害性》は社会による規定に他ならない。障害者が障害者として規定されるのは、社会の構造による。例えば、大多数の人が持つ身体で登ることができる階段があるからこそ、その階段を登ることが出来ない人間は障害を持つとされる。ある人が障害者である原因は、社会の構造が原因である。精神障害者と名指される人にとっても同様である。理性が社会的な規範と認められているからこそ、その人は障害を持っているとされる。だが、フーコーらの研究によって明らかなように、16Cまでは理性という概念が確立されていなかったのだ。理性の確立のために、狂気は排除されたのである。
  • あるいは同性愛者などの性的マイノリティについても同様である。彼らがマイノリティたりえるのは、またマイノリティとして名指されるのは、人間社会の文化の中で異性愛的な結婚に価値が置かれているからであり、自然の中でも同性愛などの(人間が選別した性的マイノリティ)は存在するし、だからといって自然における「性的マイノリティ」種が他の種によって迫害されるということはない。
  • それゆえ、「マイノリティ」あるいは「弱者」と名指される人を、「マジョリティ」ないしは「健常者」「強者」と呼ばれる人が配慮しなければならない理由も明白である。そもそも前者が前者として名指される原因は、また迫害され差別され、あるいは不自由をこうむる原因は、後者にこそあるからである。
  • では、人間は自然を破壊し続けていいのだろうか。この問いに対しては、否と言わざるをえない。それは、自然に固有の権利があるとか尊厳があるとかではない。自然を破壊することが、人間の生存を脅かす可能性をもつが故に、自然の過度な破壊は防がれねばならない。例えば、ある生態系を破壊することによって、農作物が不作になったりすることがある。また、二酸化炭素を過度に排出するといった環境破壊によって、それまでの天候/寒暖のバランスが崩れる可能性がある。