'15読書日記31冊目 『多数決を疑う』坂井豊貴

本書は社会的選択理論(social choice theory)の最新の知見をもとにした、民主主義と代表制をめぐる本である。帯には本文からの惹句「現行制度が与える固定観念がいかに強くとも、それは幻の鉄鎖に過ぎない」が載せられている。もう一つ刺激的な言葉として挙げておこう。

多数決という意思集約の方式は、日本を含む多くの国の選挙で当たり前に使われている。だがそれは慣習のようなもので、他の方式と比べて優れているから採用されたわけではない。そもそも多数決以外の方式を考えたりはしないのが通常だろう。だが民主制のもとで選挙が果たす重要性を考えれば、多数決を安易に採用するのは、思考停止というより、もはや文化的奇習の一種である。

思考停止、いな文化的奇習を見直すために役に立つのが社会的選択理論である。それは人々の間で何らかの決定を行う時、どのようなやり方で人々の意志を集約するのがもっとも適切か、ということを数理的に考える学問である。民主主義といえば多数決、という理解がされることがあるが、多数決は一つの意思集約の方法にすぎない。多数決と言っても、一般的に想起される単純多数決の他に、選好の順序にしたがって加点していくという(例えば1位には3点、2位には2点、1位には1点)ボルダ方式や、是認型の投票、候補ペアごとの多数決をしていってその過程での勝者を決定するというコンドルセ・ヤングの最尤法など様々なものがある。興味深いのは、こうした意思集約の方法のどれを選択するかによって、人々の意思の現れが変化するということである。人民の意思自体というものはそのまま認識できず、またそのような存在は単に思考可能なだけであり、現象として認識される人民の意思なるものは何らかの枠組み(意思集約の方法)を通してしか存在しえないのだ。さらに言えば、筆者は言及してはいないが、おそらく意思集約の方法そのものも、選択者の意思に影響をあたえることがあるかもしれない。つまり、人民の意思なるものは――法学的には当然このように考えられてきたが、社会的選択理論が実証的に明らかにするように――擬制にほかならないのである。
本書は様々な意思集約の方法を検討するなかで、代表民主制の議論や憲法改正手続きの妥当なライン(日本国憲法第96条に関して)、行政の民主化(小平市住民投票をめぐる一連の出来事)、さらにはルソーの『社会契約論』にまで言及し、読者の思考を刺激する熱い本である。