'15読書日記30冊目 『民主主義の本質と価値』ハンス・ケルゼン

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)

民主主義の本質と価値 他一篇 (岩波文庫)

シュミットの議論と比較して読みたい一冊。シュミットは独裁が民主主義の敵ではないとするのに対して、ケルゼンは独裁こそは民主主義の敵であるとする。民主主義のイデオロギーは自由の理念を根底にしているのであり、支配されるものが支配するという国民主権の原理に貫かれていなければならない。その場合、民主主義-自由というイデオロギーカップリングにおいて、国民はそれ自体で一つの擬制である。それは「国家法秩序の規律対象となる個々の人間行為の体系」であり、

なぜなら、人間はその全体として、心身の生活の全機能・全側面が社会共同体に帰属するのではなく、人間をもとも強力に把握する国家にさえ帰属するものではないからである。まして、自由の理念によって形成された国家に帰属するはずがない。国家秩序が把握するのは、個人生活の特定の側面にすぎない。人間生活の相当部分は国家秩序の外にあり、必然的に国家から自由な領域を留保されている。それゆえ、諸個人の多様な行為を国家法秩序によって統一化したにすぎないものを、民衆の総体としての国民であると称するのは擬制であり、国家秩序が命令・禁止の対象とした個々の行為を通じてのみ国民となっている人々の全存在を、国民として国家要素の構成者と説くのも欺罔である。

さらにこうした国民という擬制は民主政治の現実においては政党によって媒介される。政党以前には政治的潜勢力(politische Potenz)としての国民は存在せず、「民主的発展によって孤立した個人の群れが政党へと統合され、それによって初めてどうやら国民と呼ばれうるような社会的潜勢力が発動するのである」。この場合、議会において国民の代理人によってのみ、国民は自らの意思を表明することができるのであり、代表という擬制(Fiktion der Repräsentation)が成り立っている。ケルゼンは興味深いことに、議会の代表をどのように考えるかということについて命令委任と独立委任という問題があるが、後者こそが近代民主政治の開始を告げるものであったと指摘している。命令委任は旧身分による等族会議におけるものであり、そこでは議員は非選出母体であり自分が所属している身分団体によって拘束されていたのだ。しかし独立委任であったとしても、この代表という擬制を議会制の本質としてみなすことはできないとケルゼンは主張する。ルソーがイングランドでは選挙の時しか人民は自由ではないと述べたように、ケルゼンもまた明らかに自由の原理は議会主義によって侵害される可能性を指摘する。それでは議会主義の本質とはどこにあるのか。

議会制手続きというものは、主張と反主張、議論と反論の弁証法的対論的技術から成り立っており、それによって妥協をもたらすことが目標になっている。ここにこそ現実の民主主義の本来の意義がある。

対立する利害の中間線を引くこと、対立方向に向かっている社会力の合成力を創りだすこと、これこそが議会手続きの全体が目指していることである。

もちろんそうだったとしても議会主義に民主的要素から疎遠となる可能性が含まれることには代わりはなく、そのためにケルゼンは、国民投票と国民発案、あるいは議員の責任免除制度(議会の同意なしに裁判所に訴追されず身柄を拘束されない)の廃止・縮減、完全な比例代表制といった改革案を提示している。こうした改革を通じて民主的要素を拡張した議会主義においても、やはりその本質である妥協の形成という意義は変わらない。議会制手続きの本質的な要素は、妥協の形成のための多数決原理だとケルゼンは言う。

「多数者が少数者をも代表する」「多数者の意志が全体の意志である」という擬制を受け容れないならば、多数決原理は多数者が少数者を支配するという形を取るはずである。ところが現実はたいていそうなっていない。[...]いわゆる多数決原理をきちんと守りながら、実際には数字上の少数者が数字上の多数者を支配することがある。あるいは隠微な仕方で、たとえば選挙技術上の何らかの作為によって、政権担当集団が外見上多数はとみなされていることもあるし、あるいは公然といわゆる少数派政権がイデオロギーとしては多数決原理にも民主主義にも反しながら、民主主義の現実型には立派に適合しているという場合もある。社会的現実を直視する考察にとって、多数決原理の意義は、数字上の多数者の意志が勝利することではなくて、多数決原理という思想が受け容れられ、このイデオロギーの実効的支配のもとで、社会共同体を形成する諸個人が基本的に二集団に分類されるところにある。重要な事は、多数を形成し獲得しようとして、社会内に存在する相違・対立への無数の衝動を唯一の基本的な対立点に従属させ、結局は支配権を争う二集団の対立に集約することである。[...]多数決原理を社会学的に特色付けるのはさしあたって社会的統合力である。[...]社会的現実においては多数者の少数者に対する絶対的支配などは存在しない[...]なぜ存在しないかといえば、いわゆる多数決原理によって形成された団体意志は、多数者の少数者に対する一方的支配としてではなく、両集団の相互的影響の結果として、相対立する政治的意志方向の合成力として生ずるものだからである。

ケルゼンの議会制-妥協形成理論においてこうした多数決原理が本質的な意義として見出されているとすれば、そこにおいて少数者には常に少数者であること自体の意義があるということでもある。多数派は少数派なしには(定義上)存在せず、少数が永続的に一方的に支配されるのだとすれば、団体意志形成への参加を放棄し、そこから脱退しようとするだろう。この脱退可能性が、多数派の決定に影響を与える手段となるというのだ。
興味深いことに、ケルゼンはこうして自らが主張する議会主義をある世界観の表現として理解している。そこには自由民主主義の哲学的表現が、あるいはなぜ自由と民主主義がカップリングされるのかということが、あからさまになっているだろう。その哲学的表現・世界観とは、絶対的真理・絶対的価値というものは存在せず、相対的真理・相対的価値だけが人間の認識にとって到達可能なものだ、というものである。

絶対的真理と絶対的価値への信仰は、形而上学的世界観、特に宗教的・神秘的世界観の前提を創りだす。それに対し、その前提の否定、「相対的真理・相対的価値のみが人間的認識にとって到達可能なものであり、それ故にすべての真理、すべての価値、そしてそれを見出すすべての人間は、常に身を引いて他者に場所を譲る用意をしていなければならない」という思想は、批判主義・実証主義の世界観へと導かれる。ここで実証主義とは、その出発点を実証的なもの、すなわち所与、知覚可能なもの、可変の、変動してやまない経験にとり、それゆえにこの経験を超越した絶対者の想定を否定する哲学・科学の潮流である。[...]絶対的真理と絶対的価値が人間的認識にとって閉ざされていると考える者は、自分の見解のみならずそれと対立する他者の見解をも、少なくとも可能なものと考えるであろう。それゆえ、相対主義こそ民主主義思想の前提する世界観である。