夏休み読書マラソン10冊目 カンバセイション・ピース 保坂和志


カンバセイション・ピース (新潮文庫)

カンバセイション・ピース (新潮文庫)


小説家の私が妻や、妻の姪、友人の3人が経営する会社、そして猫三匹と一緒に、築50年の一軒家に住む中で、溢れ出る思考や、その思い出、死と背反の事柄について、濃密な熟考の時間を緻密な文章で書ききった力作。


「分からないときに、すぐ分かろうとしないで分からない場所に我慢してとどまっておくことが大事」とか様々に印象的なフレーズが多い。あと、筆者は一文がメタメタに長い。

例えば、(ここから読まなくていいです。)


『八月十二日の土曜日から始まった浩介たちの夏休みは、よく和歌あらないけれど三人のうちの誰かが不意に半日くらい現れては「夏休みだから」とかいって帰っていくというような状態がだらだらと続いて、三人全員が揃って朝から出てくるようになったのは二十三日の水曜日で、その間に妻の理恵のシンクタンクは始まっていたけれど、ゆかりは実家から半日荷物を取りによっただけでそのまま友達と北海道に行って、浩介たちが揃った二十三日の夕方に実家ではなくて直接こっちに戻ってきて、帰る前の日に急に冷え込んだらしくて鼻を少しズルズルさせながら、どことかの湖の湖畔のトイレが汲み取り式でそこに友達が財布を落として、ゆかりが側の土産物屋に入って言って何か某でも借りようとしたら、そういう人がたまにいるからトイレの脇に網が置いてあるといわれてそれで取って、友達は三十分くらいずうっと水道でその財布を洗って結局それを使って「信じられない」「あれからずっと臭い気がした」とか、知床半島の先まで行ったらゆかりがバスの待合室のベンチにかばんをわすれていた事を電車に乗り換えるときに気がついて、戻ろうと思ったら次のバスは二時間後で、「どうしよう」「どうしよう」と三人で騒いでいたら、ずうっとそれを見ていた駅前のお店の叔父さんが見るにみかねて三人を車に乗せてそこまでわざわざ往復してくれたとか、別の時にはバスを待っていたらちょっとかっこいい男三人に声を掛けられて、三人で顔を見合わせて「やった」「ついにナンパされた」と思ったのだが、その男三人組が喋ったらひどい訛があって、ゆかりたちが何度も聞き返しているうちにだんだん言葉数が減ってきて、自分達同士でゴチョゴチョと早口のもっとひどい訛で暗号でも喋るように喋りあってはたまにゆかりたちに話しかけるだけになってしまって、一時間半乗っていたバスの中の空気が重くて死にそうだったとか、私と妻にした話も浩介たちにした話もそんなことばっかりで、コレではどこに言っても同じじゃないかとこっちは思うのだが、ゆかり自身はこんな旅行で充分に満足しているみたいで、私達に話していないときには一緒に言った友達と何度も繰り返し同じ旅行の話をしていたみたいで、帰ってきた二日後には旅行に行った二人に会いにまた出かけていった。』


コレくらい長い。どうよ笑 まあ、こんな取り留めないことを短文で区切って書いても、とは思うけれど。


印象的な保坂和志的思考としては

「何か特別なこと、例えば霊みたいなものは、3Dの絵みたいに焦点を合わせると、そこにあるのだと認識するのに、あわせないと、そこにはない、みたいなものかも知れず、また、多くの人は例を見たという人に対して、また超能力者に対して、どこでもそれをやってみろというが、そういう特殊なことはいろんな条件が会わないと出来ないのかもしれない」


「自分が答えを分からなくても、他の誰かが分かっているから良い」


「死ぬというのはおかしなもので、死んだ途端に偏在を始める」


「人間は認識されたものを<擬人化>して説明付けたり考えたりする。本来はその<場>の側のものが見せている何かを<擬人化>しているのではないか?」


などなど。


俺的には好きな部類に入る小説。


498p

総計3032p