07読書日記23冊目 「無知」ミラン・クンデラ


――背後に残してきた時間が広大になればなるほど、私達を帰還に誘う声は抗しがたいものになる。そのような所見は自明の様に見えるけれども、嘘だ。人間は老い、終焉が近づいてくる。すると各瞬間がだんだん大切になり、思い出などにかかずらって失う時間がなくなるのだ。郷愁の数学的パラドクスとも言うべきものを理解しなければならない。郷愁がもっとも強いのは、過去の人生の総量が全く取るに足らない青春時代なのである。


無知

無知

チェコから亡命した二人の男女―別々のフランスとデンマークに亡命したのだったが―は、チェコを《プラハの春》以降統治していたロシアに対して民衆が起こした《ビロード革命》により民主主義化したチェコに、帰還しようとする。二人の帰還は、喜びを持って迎えられるはずだったが。様々に悲劇が喜劇となって、あるいは喜劇が悲劇となるようにして巧みに描かれる具体的な描写と、著者の用いる論考が折り重なる瞬間がたまらない。


ミラン・クンデラを読むのは二作目なのだけれど、ここまで同時代的で、それでいて存在論や時間、空間といった概念を、捉えようもない悲喜劇によって端的に描写しうる作家がいたであろうか、と思い震えるほどなのだ。


例えば、本書から数行引用してみよう。そのほうが、私が何を語るよりも、素晴らしい喧伝になるだろうから。


『死ぬこと。死のうと決心すること。それは成人よりも未成年者の方が、はるかにやさしい。なんだって?市は成人よりもはるかに大きな未来の部分を未成年者から奪うのではないか? たしかにそうだ。しかし、若い人にとって未来とは、はるか遠くの、抽象的な、非現実的なものであり、若い人は未来など本気では信じていないのだ。』


あるいは、こうだ。


『ヨゼフはずっと昔の、当時は冒涜的だと思っていたこんな考えを思い出した。共産主義を信奉することはマルクスとその理論とは何の関係もない。ただ時代が人々に、この上なく多様な心理的欲求を満たせる機会を差し出しただけなのだ。自分を非=順応主義者に見せたいという欲求。あるいは従順になりたいという欲求。あるいは若者達と一緒に未来に向かって前進したいという欲求。あるいは身の回りに大家族を持ちたいという欲求。』


それらの言葉が、我々読者をどう位置づけて、その言葉を解釈する自由を与えうるのだろう?筆者の下に手繰り寄せられて、身の自由を奪われるような、そういったある種マゾヒズムに依拠するような快感が、私を貫いたのは間違いがないことなのだ。


220p

総計6958p