07読書日記49冊目 「饗宴」プラトーン


饗宴 (新潮文庫)

饗宴 (新潮文庫)


プラトンと言えば形而上学イデア論で有名な人ですが、今著「饗宴」では、師のソクラテスと他の哲学者との対話篇という形式を取り「愛(エロース)」について論じています。


悲劇作家アガトンの劇が第一位入賞を果たしたことを祝う「饗宴」の席で、様々な哲学者(その中にはあの喜劇作家アリストファネスも含まれます)が「エロース」についての賛辞を述べた様子を描いたものです。イデアとしての「愛」の形、プラトニック・ラブを論じた決定的な古典です。


しかし、私が注目したのは、後半、実質的にはエロースとの関連は無いのですが、ソクラテスの愛を享受しようと奔走した救われない弟子が乱入してくるシーンです。この場面が、まさに文学的な楽しみをもたらしていて、作品自体に疾走感を与えます。はるか昔、紀元前四世紀頃に書かれたとは思えないほどのドラマツルギーをもっています。「笑い」と「悲劇」のどちらも、持ち合わせたまさに、ルネサンス時代、ダヴィンチが目指した万能人としてのアテネ哲人プラトンが存在しているのです。文学作品としても、この著作自体が不滅のエロースと化しているのではないでしょうか。


218p

総計14056p


目玉となるのは、ソクラテスと悲劇作家アガトンとの対話の部分なのですが、そこではエロースについて他の哲学者が述べた、”べた褒め”の賛辞ではなくて、ソクラテスはエロースのもつ本質や志向性について論を深めていきます。


まずエロースの本質が述べられます。

(1)エロースとは、自らに欠けているものを欲求し恋い求めるものである

(2)それは美への永久に尽きることの無い欲求でもある。

(3)エロースは「中間性」を帯びたものである。


(1)(2)との関連は後述するとして、まず(3)を詳説しましょう。この(3)の「中間性」において、エロースとは知との連関でも語られるように、不死なるものと死すべきものとの間に位置するものだというのです。よく知られたソクラテスの「無知の知」というのは、自己を良知と無知の「中間者」とみなすことでした。(つまり、良知のものはそれ以上の知を必要とせず、無知のものは知を欲しようとはしない、すなわち知における中間者こそが自らに「何かが欠けていること」、「何が欠けているのか」の両方を知る存在だというわけです)。このエロースのもつ「中間性」とは、常に完全体へと上昇運動を行う過程であり、一対をなすAとBの生成過程、A⇒BあるいはB⇒Aの過程に存するものです。その上昇運動においては、常に自己否定を行い、自らを刷新することで完全体へと志向する動きに他なりません。不完全なものから完全なものへの中間地点に位置する、この上昇運動こそエロースの本性であり、それは完全な自己への生成変化だというわけです。


ではこの(3)と(1)(2)の前提がどのように関わりをもつのでしょうか。この問いに答えるためには、別の問い「エロースは人間に対してどのような役割を果たすか」という問いに答える必要があります。


エロースとは(1)より自らに欠けているものを求めることでした。そして(3)より、その自らに欠けているものを補って、完全な自己になるべく欲求する動きをも内包していました。このエロースの対象(欠けているもの)は、エロースの上昇運動によって当然自らのものとならねばなりません。では、自分のものになるもののうちで最もも望ましいものというのは何でしょうか。それは「幸福」だとソクラテスは言います。そして「幸福」を実現させてくれるものこそ「善」であるとも述べるのです。このように「幸福」となることこそが窮極において求められているものなのです。また、この「善」こそ、「自らに欠けているもの」が「自己本来のもの」となるための必要条件であるので、(1)より、エロースは、善である限りにおいて、対象が自分のものになるという事を欲しているのです(自己に欠けているものの中で、「自己に無縁なもの」こそ悪だという構図も誕生します)。


というところからまた前提が浮かび上がります。それは

(4)自己に欠けているもので「自己本来のもの」となりえる窮極の姿が「善」である以上、エロースは善への方向性を自らのうちに持つ。


というものです。つまり、エロースがこの「善」性を内包する限りにおいて、エロースとは情熱や欲望自身を支配し、倫理的基準に従うのみならず、その種の基準を提供し、評価の働きを成すものだと言えるのです。


また、この「善」=「幸福」が窮極の目標であるならば、美は窮極のものとは言えず、では美を手に入れることによって一体人間に何が生じるのであろうか、という問いが生じます。幸福は他の何かの目的のために存在することはないので、この美を手に入れるのも結局は自らが幸福になることであり、善を求めるために他ならなくなるわけです。さらにここで(3)との連関から、美を求めるという動きは、むしろ善を求める中間地点に存すると考えられ、つまり美はもはや「幸福」のための手段に堕ちてしまったのでした。


ここまで論を進めると、ソクラテスは次に、エロースの自らの欠けた部分を補うべく欲求する、という性質を剥奪してしまいます。そして自分から何かを与える、提出する=妊娠するという性質が本性なのだと言い換えるのです。大きな言い換えの様に感じられますが、これは「欲求する」というタームをより精確に表したものであり、欲するのは産むことに他ならないのだと説明するのです。そして、美はもはや対象ではなく、その美の中でしか出産することはできないのだという風に論じられ、美が無ければ出産が無いという「必要条件」としてしかエロースの定義には含まれなくなります。つまり、(1)と(2)はそれぞれ


(1’)エロースとは妊娠することである

(2’)美がなければ出産はない


という風により精確に言い表されることになります。ではこの出産においては何が求められるのでしょうか。それは「不死不滅」だというのです。これはつまり、エロースが「常に」幸福を、善きものを欲するものであり、しかも「常に」それらが自分のものであることを欲するわけですから、「常に」「永遠に」ということこそが。不死不滅によって確保されるということなのです。つまり、常に善を、幸福を欲し続けるためには、自らが不死不滅でなければならないというわけです。(3)との連関で言えば、エロースとは自分自身が不死なるものと死すべきものの中間に位置するがゆえに、自己を超えていこう、自己を否定しながら自己に向かって進んでいこうという欲求に他ならないのです。つまり、善がエロースをして自己を超克させ、全ては善を目指していくようになります。ということから、(4)は次のようにまとめられるでしょう。


(4')エロースとは自己を超越しながら、善を目指す性質を持つ


この性質をきわめ、自己を絶え間なく更新していくエロースを持ちえた人間は、最上の「美」を心に描くことができ、さらには真実の「徳」を生むことさえ可能になるというわけです。


参考「プラトン快楽論の研究 善の研究序説」伊東斌