07読書日記67冊目 「死に至る病」キェルケゴール
私にとって真理であるような真理を見出すことである。そのためになら私がいつでも生きかつ死ぬことができるようなその理念を見出すことである。
- 作者: キェルケゴール,斎藤信治
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1957/01/01
- メディア: 文庫
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やっと読めた。今日で一気に100ページくらい読んだ。モスバーガーで。
難しい・・・最後の50ページくらいはほとんど何言ってんのかわからんくて泣きそうでした。もうちょっと大人になってから読んだらわかるようになってるんやろか。絶望です。
「死に至る病」っていうのは、勘違いしがちですが、自らを死に至らしめる病、と言う意味ではないです。死に至る病とは絶望をさすのですが、その絶望が死してもなお絶望し続ける、死の死をどうともしない絶望を意味します。絶望とは、自己を本来的に意識しない場合、自己自身であろうと欲しない場合、自己自身であろうとする場合を指します。
ある「躓き」(本書ではキリスト者の信仰の躓きというコンテクストで言われていますが)によって、人々は絶望します。自らの過ち、罪を意識し始めます。すると、もはや絶望している自己に嫌気が差し、自己であろうとはしないのです。そして新たな、本来ありうべき自己になろうと欲します。自らの罪を意識しないものは「躓き」ません。そして、絶望を絶望と認識することもないまま、ニーチェの言葉を借りるなら「畜群」として生きざるを得なくなるのです。
絶望からの救済は、唯一の信仰、つまり神への絶対的善自己を投射した祈り、救済の祈りに縋るよりほかはないのです。自らが個人として神の前に立っているとし、自らの全てを賭けて(安部晋三流に言うならば、姓名をとして)「あれかこれか」の闘いへ向かうより、絶望からの救済はありえないのです。
しかし、その救済も果たして成功するのでしょうか。キリストは、「全て信仰によらぬものは罪である」あるいは「汝為すべき」と、悟性を超えた調子でまさに絶対者の口ぶりでわれわれに語りかけてくるのです。悟性を超えたものについて悩まぬのも、つまり「躓く」ことを看過するのも絶望であり、また実際に信仰において「躓く」のも絶望であるのです。絶望は、信仰のアンチテーゼです。信仰は弁証法的作用をもって止揚されねばなりません。止揚を導くものは「あれかこれか」の闘いにおいてのみ、つまり全自己を賭した生き方においてのみ成立するのかもしれません。ああ、その信仰はそれでいて悟性を超越するのです。そこにはまた「絶望」しか見えないのです。
p237
総計18709p