07読書日記69冊目 「テヘランでロリータを読む」アーザル・ナフィーシー


テヘランでロリータを読む

テヘランでロリータを読む


今年読んだ海外ものの中でかなり上位にランクインする秀作。


ホメイニー圧政下のテヘランで、大学を辞めた女性英文学講師が生徒らを集めて「読書会」を開く。そこで読まれる本は、イスラームからは嫌悪される西洋文学だった。ナボコフ、ジェイムズ、フィツジェラルド、オースティン・・・


想像力の「逃げ場」を持たねば、イスラームの中では本当の「私」には出会えない。ノンフィクションであろうが、作者がナボコフ研究者であるだけに、現実の足かせを解き放ち「共感」をめぐる強い力を持つ文体で、あたかも小説のように読み進められる。圧政下、ヴェールの中で私を殺し、その私を救済するために想像力の隠れ場に逃げ込む。


圧政下では「共感」−他者の受ける苦しみを理解しようとつとめること、想像力を働かせること−が欠如する。誰もが自由を求めているはずなのに、それらは空転し、巨大な暴力の下敷きになる。われわれはそこに語りうべき言葉を持ち合わせていないような錯覚を受ける。いや、語ることは必要のないことなのかもしれない。そこへ、その時間へ、その場所へ、その人へ向けて、祈りにも似た「想像」をめぐらせれば、それでいいのだ。


ナボコフはすべての優れた小説はおとぎ話だといっている、と私は話した。・・・あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性を与えてくれる。そのため、ある意味では、現実には否定されている自由を与えてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な抵抗がある。作者は現実を自分なりに語りなおしつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。あらゆる優れた芸術作品は祝福であり、人生における裏切り、恐怖、不義に対する抵抗の行為である。」


ノンフィクションとして、そして、フィクションとしての力を十分にもった本。


「いじめ」という問題も「想像力」の欠如であろう。これに対する反論としてよくあるのが、むしろいじめる側はいじめられる者の絶望を苦しみをより理解しているからこそ、さらにそれを続けるのだ、というような論旨。これは全くあたらない。本書で語られる想像力とは、次のように他者の人生に対する好奇心であり、他人の人生を踏みにじることへの懺悔である。


「ハンバートが悪人なのは、他人と他人の人生への好奇心を欠いているからだと私は言った。それは最愛の人、ロリータに対しても同じである。ハンバートは大方の独裁者同様、自らの思い描く他者の像にしか興味がない。」


485p

総計19445p