07読書日記70冊目 「人生の親戚」大江健三郎
- 作者: 大江健三郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1994/07/28
- メディア: 文庫
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「人生の親戚」とは「悲しみ」のことだという。ラテン語圏の人々らは、同情や共感示す際に「人生の親戚!」と嘆息を漏らすのだそうだ。
人が人生において死を想起せざるを得ないような悲しみにぶちあたったとき、その後の人生をいかに生きうるのか。小説の描く人物は、この「悲しみ」を全て引き受けて生の歩みを進める、それはうちひしがれて堪えることのできないようにみえるものであるが、「死はいつでも前にある」という様な安堵の気持ちを持って、悲しみを携えながら生き続けたのであった。
この小説の重要な主題は二つある。もちろんそれは「悲しみ」を引き受けざるを得ない主体的な生の問題であり、もう一つは「宗教的絶対者」の問題である。西洋圏の人間と違って、我々には信仰できる「絶対者」の存在がない。絶対者の不在の中で、いかに自らに主体的に「悲しみ」を引き受けうるのか、ということである。
主人公は「性」を一つの重要な鍵としてみなしていたのであろう。最後に描写されるビデオ・テープに写った、癌で痩せ細り貧弱になった裸身の前で弱弱しくVサインを作り出す女性、書き手はそこに絶対者に代わる何かを見出しえた主人公の提示を見たのであった。それは「性」への没頭ではないにしろ、性に主体的に関わりを見出しながら、性を通じて「あちら側」へと導かれるような可能性を残すものではないのだろうか?
小説的な技法に関していえば、非常にポリフォニー(多声的)な小説である。多声的というのは、音楽的な和音や対位法的提示のことを指すのであるが、それによって物語が一つの概念に縛られること無くより高い飛翔を可能にするのである。
決して易しい読みが可能な小説ではないが、抽象度が高く、多くの再読に堪えうるような作品であろう事には間違いがない。とはいうものの、中間部分の主人公の生き様には息詰まるような、あるいは退屈な気分も覚えもした。
267p
総計19712p