08読書日記2冊目 「公共性の構造転換」ハーバーマス
かなり面白い。
- 作者: ユルゲンハーバーマス,Jurgen Habermas,細谷貞雄,山田正行
- 出版社/メーカー: 未来社
- 発売日: 1994/06/01
- メディア: 単行本
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批判審廷的役割を果たす公共性、すなわち権力を権力の解体へと向かわせる力を秘めたもの。それは、読書する公衆の、積極的な議論によって生み出されるものであった。読書する公衆とはすなわち一定の教養と富を持つブルジョア階級である。彼らの公論の矛先は国家の「合理性」と「普遍性」へと向けられ、議会に対しては公開性が要求される。そういった公論を想定として近代国家は成立していた。
しかし、合理性と普遍性が法律の分野で交錯しはじめると、また普遍性がより拡大され選挙法が制定されると、この公共性が崩壊し始める。国家と社会、公的領域と私的領域の中間に位置した公共性が、その公私領域の混同によって、ひび割れるのである。それに追い討ちをかけたのがマスメディアに代表される受動的な文化である。大衆文化は議論すらも消費財として組み込み、公衆はそれらに単に従うだけの存在となる。かくしてマスメディアが政党や国家によって公論を操作するためのツールとなりはてる。もはや公共性は批判機能を失い、拍手による消極的な参加を生み出す公衆をただ操作し、そして国家自らの権力を示威するためだけの公共性と堕してしまった。
簡単にまとめるとこんなかんじか。大分乱暴やけど、覚えてる限り。
あ、今思ったこと。上記の権力機構による示威的・操作的な公共性は、無知なる公衆からすれば、自らが操作の対象であり、選挙の度ごとに一時的に形成される公共性であることに気づいてはいない。つまり、メディアが表徴する消費文化によって、広報活動を行い公論を形成する権力機関は、公衆にとって透明化してしまっているのではないか。とすれば、議論の筋道は違うけれど、結論としてはフーコーの言う、「権力が見えなくなる構造」と一緒なんじゃない?確かフーコーそんなこと言ってたよね?
と思ったけど、やっぱりフーコーとハーバーマスは根本的に言ってることが違うみたい。今日のゼミで教えてもらいました。端的に言えば、フーコーは権力機構を見えないものとして扱い、大衆がそこに積極的に参与することで表徴されるような権力なのであり、それがハーバーマスの言うような対国家のような簡明な権力ではなく、フーコーでの権力解放というのは想像しにくい、ということでした。
うーむ。フーコーの言ってることの方が深い気がする笑
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