08読書日記5冊目 「沖縄ノート」大江健三郎


沖縄ノート (岩波新書)

沖縄ノート (岩波新書)


私は残念ながら、日本の近(現代)代史に疎い。世界史にも疎いが、日本の戦後期の政治思想史は本当に知識がないように思い、情けない。沖縄を巡る闘争史についても同様である。仕方がなく、怪しげな情報も書き込まれている事を肝に銘じながらwikipediaで「沖縄の歴史」項を見る。琉球王国に対して、明治政府が為した「琉球処分」、そして1972年の沖縄返還


沖縄返還において「日米安保」を論の傍に置きながら、「日本人であること」を大江自身が考察し、というよりcontemplationを深く自らのうちに恥ずかしげに閉じこもりながら行った記録である。沖縄が戦後の米国統治体制の中で日本「本土」から切り離され、沖縄が本土に住む日本人の意識の淵に沈んでいく事を危惧した本・・・。1972年の沖縄返還、そこには米軍基地は付随したままであった。


本土の人間が、その沖縄返還を持って「沖縄の問題」は終わったのだ、としたり顔で微笑んだとして、それが沖縄県民への侮蔑以外の何ものでもあるまい?というような、問題意識。あるいは日本人の日本人としての責任の取り方、という左翼思想真っ只中の本。本書で、私が言及されている中で、私が驚きを持ったのが、沖縄に対する「差別意識」のあり方である。もはや我々の世代、昭和の終わりと共に生まれた世代は、沖縄はすでに日本であり、素晴らしき楽園、の様な印象さえ与えた。沖縄人は日本と対峙し、日本の主権者として生きることを希求した。それは日本人、侮蔑的な言い方をあえて使えば「本土」の人間も、自らに立ち返って考えねばならぬところのものであろう。沖縄がアメリカと日本のあいだで揺れている、その時代は、日本人、本土の人間が自らの持ちうる民主主義、国家、対米関係についてもっと深く考える機会を与えてくれるものであったのだが。


しかし、それにしたとて、なんといっても読みにくい。複文に次ぐ複文、そして挿入の多様、こういったレトリックの点で大江の「沖縄ノート」はまさしく「自省の記録」であるのだ。読みにくい!!!そして、わからない。私はこの本の恐らく3割程度しか理解できていないのではないか。大江シンパの私が読みにくいのだから、ほとんどの人は読み通す気力を途中で失うのではなかろうか。その点で、赤松大尉の名誉はある意味守られたとも言えるが・・・笑


実際に、1970年時期の、沖縄問題を知らぬ私にとっては、本書から伝わる大江の誇大なまでのアイデンティティの問題の気配しか感じられぬのだった。もちろん、この本を、沖縄で起きた集団自決の問題を抉った本、としてみなすのは多いな誤読であろう。


むしろ、私が大江からの重要なメッセージとして読み取ったのは、ハンナ・アレントの言葉「実際はなにも悪いことをしていないときにあえて罪責を感じるということは、その人間に満足をあたえる、きれいごとだ」ということ。ここでは「実際は何も悪いことをしていない」というのは、欺瞞であり偽装である。その偽装された自己正当化のうちに、罪責を感じることは偽善的で、それで満足を覚えるという醜悪な結末しか興さぬものだ、というのである。本土の人間が、「ひめゆりの塔」を見て、感動し涙を流す事、それで満足して、「沖縄の問題」ひいては「戦争の問題」をなし崩し的に終わらせてしまう事、それが、アレントの糾弾するところのものでもある。実際に、「集団自決を強制したと記憶される男」が渡嘉敷島の慰霊碑へ赴く、というエピソードは、ほとんど比喩である。それは何の比喩か、本土の若者が、「男」の贖罪の”ポーズ”によって自らの認識しておらずとも偽装して罪の無い風、責任の無い風を装った末の、満足感である。「男」の沖縄に対しての”感動的な”ポーズ”によって、自らも贖罪されたのだという風に感じる末の、欺瞞である。


この本は、大江の本質的な自省の記録に過ぎない。最後の本の瑣末な「集団自決」だけを取り上げられることは、コンテクストを大きく逸脱している。そのことは確かだ。しかし、本論の部分、つまり本土の人間の「責任感」という部分は、現代を生きる我々に思想史的状況も伝えづらくあるし、現代の我々、昭和の最後に生まれた世代が抱える本質的な問題に答えてはいない。それはすなわち、もはや戦争終結から二世代はなれた我々、そして今日以後登場する子供の世代は、いかにして戦争の責任を持ちえるのか、その「倫理的想像力」の拠り所をなにに求めればいいのか。また、憲法とはどのように読みえるものなのか、そしてそこで核となる九条に対して、大江の様に感情的にならずに、理性的に考慮する術をどう持ちえるか。果ては、アメリカの核の傘から、そろりと抜け出すことはできるのか。


本書はこれらの問について考える契機にこそなれ、(むしろそうでもとらなければ読み終えた後の疲労感が癒されまい)、およそ新しく、切れのあるとはいえぬ、小説家ならではの論考に目を泳がせるだけの本である。大江は小説家であるのだ。小説を書くようにはいかぬ・・・


p228

総計1401p