08読書日記6冊目 「のための哲学」永井均


<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス

<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス


世の中には二種類の本がある。

それは「風呂本」と「地上本」である。

「風呂本」は「ふろぼん」、「地上本」は「ちじょぼん」と読む。


この本はまさしく風呂本である。


ってわけわからんこといってんでねー。でねねー。


「子供のため」ってあるからって、子供が手にとっても多分ついてけません笑 子供には<>がついてるんですから!つまり、「子供のときに持っていた疑問を考える事=哲学」という意味のタイトルなわけです。


筆者は「子どもの哲学には代用がきかない。子どもの哲学こそがもっとも哲学らしい哲学である理由がそこにある。そこにこそ、何ものにもとらわれない純粋な疑問と純粋な思考の原型があるからだ。」と言い、子どものときに多くの人が抱くであろう、そして、大人になるにつれて忘れ去る、あるいは見て見ぬ振りをする疑問を考え続けます。

「なぜ僕は存在するのか」と、「なぜ悪い事をしてはいけないのか」です。前者も後者も、考えれば考えるほど深淵に飲み込まれていくタイプの問い。それを考える事、考え続ける事が、永井さんの哲学なわけです。


彼の根本問題である前述の二つの問いを巡る考察は、特に僕の興味を引きませんでしたが(いや、面白く読めたものの、痺れはしなかったという点で)、彼の「哲学」観とでもいうべきものは、心を打ちます。


彼に言わせれば、哲学書に書かれてあるのは「思想」に過ぎず、それを読んだところで哲学にはなりえない。哲学とは、自らの根本問題に対して深くもぐるようにして考え続け、「ああ、そうだったのか、という過去形の納得」を手に入れるだけのものだ、ということです。「それは、どんな思想の提唱でもない。そこには、こう考えるのがよい、こう考えよう、と提唱する(他人に、そして自分に)といった未来志向的な要素はみじんもないからだ。」


そうなのだ。

「哲学はなんの役にも立たない」からこそ、哲学なのだ、という思いを強くするのと同時に、その「哲学」を自身が行いえているか、借り物の知識ばかりを増やそうとしていないか、問う契機にもなったのである。


・・・まさに風呂に入りながら・・・


216p

総計1617p