08読書日記8冊目 「抱擁家族」小島信夫


抱擁家族 (講談社文芸文庫)

抱擁家族 (講談社文芸文庫)


小島信夫なんて、ほとんどの一般読者は、知らないのかもしれない。僕らの世代が彼の存在を知るにいたる経路としては主に二つあるかもしれない。一つは、加藤典洋の著作に触れて、また大澤真幸が「戦後」について論じた著作を読んで。もう一つは、保坂和志の師匠の様な存在であった、という情報から。事実、彼の本は文庫化されている数も少なく、現在で論じられる事は稀な作家でもあろう。


江藤淳はこの小説を、戦後アメリカの介入があり、高度成長が訪れ豊かになり母性が喪われ、その反面父性が成熟するチャンスを得るが、日本はその父性の成熟さえも失敗するのだ、という形象化として論じている。


僕はこの解釈を面白く捉えるし、それについて批判を加えることはしない。ある意味では実存的である小説、主人公が自らの「場所」を探し求める小説であり、しかもそれが家父長である主人公の立場から行われるという主題で、それ自身はstereotypedだが、ディティールの積み重ねによる心の動きは、読み手を十分に満足させうるものである。


夫婦のいざこざを通して、反面、喜劇役者にならざるを得ない主人公(それが日本人を象徴していると読む向きもある)が、結局のところ、夫婦、いや「家」の「楽園」を求めた新居の建設を完遂するも妻の乳癌での死によってあっけなく狂気的でさえある「家」への執着を見せ、とどのつまりアンタイ・クライマクスに収束してしまう。


読者は妻の死によって喪われたものの大きさを知り、深い悲しみを主人公と共有するが、すぐに主人公の夫としての役割を執行しようともがく場面で、もがけばもがくほどのみこまれていく「家庭の紐帯の緩み」につながっていく筋書きに、こころを再び空っぽにさせられる。悲劇的な感動はその後の笑劇的な筋書きに霧消せられてしまう。


2006年、死ぬ間際に書き上げた長編「残光」の発表インタビューで小島本人はこう語る。

「僕はあの手この手を使って混乱させます。読み終わったときゼロになり、何も覚えてないように。」


単なる私小説ではないホンモノの文学の力を備えた、すなわちナラティブの複雑性、悲劇性、喜劇性、またその中で反復しつつも揺れ動く(「意識の流れ」手法)極めて「現代」の小説であると、僕は思うのだ。


296p

総計2204p