08読書日記21冊目 「職業としての政治」ウェーバー (訳:脇圭平)

職業としての政治 (岩波文庫)

職業としての政治 (岩波文庫)

マックス・ヴェーバーが、大学生向けにおこなった講演。

国家とは、『正当な物理的暴力行使の独占』を行う人間共同体であり、政治とは『権力の分け前にあずかり、権力の配分関係に影響を及ぼそうとする努力』である。暴力を支配する三形態(伝統的支配、カリスマ的支配、合法性による支配)のうち、合法性による支配の理念型こそが、「官僚制」に他ならないのであろう。

官僚制国家は近代国家の特徴であり、このような近代国家の発展は『君主の側で、行政権力の自立的で「私的な」担い手に対する収奪が準備』されることでなされてきたのであり、行政者と行政手段の「分離」が完全に貫かれた形である。しかし、ドイツでは第一次大戦敗戦後、『国家という収奪者から政治手段と政治権力を収奪しようとする動きが見られる』ことになる。そもそも、王室の権力と行政官僚が強い結びつきを示していたドイツには議会政治は浸透しておらず、それに対してヴェーバーは批判を加えるのである。

まず、官僚は『政治をなすべきではなく』、行政を『非党派的に』なすべきである。政治闘争は政治家などの指導者によって行われるものであり、政治指導者は『自分の行為の責任を自分一人で負う』べきであり、『この責任を拒否したり転嫁したりすることは出来ないし、また許されない』。議会が無力であったドイツでは長い間このような指導者が議会に入らず、入ったとしても影響力を持たなかった。ドイツでは『専門的に訓練された官僚層』が圧倒的な重要性を持っていたのである。

そのようなドイツに対してヴェーバーは、『アメリカ的な「マシーン」』(官僚の虚栄心や権力闘争に揺るがないシステム)を搭載した《指導者民主制》を選ぶべきだと迫るのである。『指導者なき民主制、つまり転職を欠き、指導者の本質をなす内的・カリスマ的資質を持たぬ「職業政治家」の支配』=「派閥」支配は腐敗政治につながるというわけだ。(職業政治家とは、政治<によって>生きる、政治を金銭的に職業とせねばならない人らのこと。)

では、政治指導者に求められる資質とは何か。それは「情熱」「責任感」「判断力」である。それらのバランスのとれた人こそ、求められる人物だ。また、問題はそれだけではなく、政治が暴力を支配する以上、それゆえに政治が倫理でありえぬ以上、為政者に求められる倫理も宗教的教条のような絶対的な「倫理」ではなくなる。『人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである』。

ヴェーバーは倫理を二種に区分する。それは「心情倫理」と「責任倫理」である。前者の態度は、宗教的聖者を目指そうとするものであり、『純粋な心情から発した行為の結果が悪ければ、その責任は行為者にではなく、世間の方に、他人の愚かさや――こういう人間を創った神の意志の方にあると考える』。しかし、一方で後者は『(予見しうる)結果の責任を負うべき』であり、『人間の平均的な欠陥のあれこれを計算に入れ』、『自分の行為の結果が前もって予見できた以上、その責任を他人に転嫁することはできないと考える』のである。

政治指導者は「責任倫理」を持つべきだと、ヴェーバーは主張する。なぜなら、いくら「善い」目的を達成するためであっても、『道徳的にいかがわしい手段』や『危険な手段』、それらの手段に誘引される『副作用を「正当化」できるかも、証明できない』からだ。『自分の魂の救済』や『他人の魂の救済』を願うのであれば、政治の手段に求めることはお門違いであり、政治には、『暴力によってのみ解決できるような課題』しかないのである。

本講演の最後で、ヴェーバーは語気を荒げて、読者に訴える。その訴えは、僕の、今の心境を強く諫め、(ある意味ではそれについて反発も感じうるのだが)、激しく僕自身の神経を揺さぶり動かす、ものすごいものである。すなわち、心情倫理家的で、責任倫理に目を向けない若者らに対して、『「愚かで卑俗なのは世間であって私ではない。こうなった責任は私にではなく他人にある。私は彼らのために働き、彼らの愚かさ、卑俗さを根絶するであろう」という合い言葉をわがもの顔に振り回す場合、私ははっきり申し上げる。』、そのような者は『自分の負っている責任を本当に感ぜずロマンチックな感動に酔いしれた法螺吹きというところだ』、『人間的に見て、私はこんなものにはあまり興味がないし、またおよそ感動しない。』

『結果に対するこの責任を痛切に感じ、責任倫理にしたがって行動する、成熟した人間』こそが政治指導者足りえる人間であり、私達は『私としてはこうするよりほかない。私はここに踏み止る』しかないのである。

『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。』、『しかし、これをなしうる人は指導者でなければならない。いや指導者であるだけでなく、はなはだ素朴な意味での、英雄でなければならない。そして指導者や英雄でない場合でも、人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志で今すぐ武装する必要がある。』『自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が、自分の立場からみて、どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても「それにもかかわらず!」と言い切る自身のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。』


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総計5503p