08読書日記26冊目「万延元年のフットボール」大江健三郎

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

1960年の安保闘争、そして1969年の学園紛争、それぞれにおいて青春期を向かえ、自らの「本当の事」に向けて闘おうとした者らへの挽歌。

この小説を社会学的な、あるいは構造主義的なリーディングをすることなどいくらでも可能だろうが、僕が根本的に感じたのは違うことだ。それは鷹の語る「本当の事」についてだ。

鷹は一揆の引率者としての曽祖父の弟、そして贖罪羊として死んだS兄に憧憬を感じ崇拝もしており、彼らに自分を重ね合わせようとする。兄である蜜は、たびたび陰険に鷹の幼い時の「弱さ」を暴露し、弱者が強がっているだけではないか、アンチ・ヒロイスムにつかれているだけではないか、と「外部」として批判を加える。蜜は自らの子が畸形児であったことを、自ら引き受けずに病院に置き去りにして子どもを放擲した。そこに端を発する鬱屈して閉塞した状況―彼は穴ぼこの中に圧し屈
んで考え込む―を逃れるべく「期待」を手探りしている状態。「本当の事」を強者を装ってでも手繰り寄せようとする鷹に従って、「期待」に満ちた「草の家」を探す。

物語の結末は、鷹は自らの過失で死んだ娘の責任を、自らの暴力性だと偽装して殺されることを夢想するのだが、結局のところ蜜にそれを壊滅的に批判され、「本当の事」を語って自殺する。蜜は鷹が語ったことを「本当の事」だとは認めないが、同時に『首を縊るにあたって、生き残り続ける者らに向かって叫ぶべき「本当の事」をなお見きわめていない!』とも感じる。「本当の事」とは、『ひとりの人間が、それをいってしまうと、他人に殺されるか、自殺するか、気が狂って見るに耐えない反・人間的な怪物になってしまうか、そのいずれかを選ぶしかない、絶対的に本当の事』である。蜜が弟の語った死の直前の言葉を「本当の事」だと認めなかったのは、語られた「本当の事」は語り手にとっては「本当の事」ですらあれ、それは語られる瞬間から、「本当」ではなくなっていくからだろう。しかし、結局のところ、蜜は自らを「外部」として現実から離反している状況ではなくて、自らの「本当の事」を手繰り寄せるために、アフリカへ行き、子どもと妻を養う責任を引き受けることになる。

日本を造り上げ、そして壊した団塊世代=学園紛争世代が、そのような「外部」になるのではなく、「本当の事」を探し求めて生きなければならない、といっているようにも聞こえる。

俺は「本当の事」を探し続けられるだろうか、そして最期には「本当の事」を表現して死ねるだろうか。

492p
総計6920p