08読書日記28冊目 「恋愛の不可能性について」大澤真幸

恋愛の不可能性について (ちくま学芸文庫)

恋愛の不可能性について (ちくま学芸文庫)

絶対に零にはならない<他者>と自己の距離。

identity(固有名、あるいは自分が自分であること)と「愛」は類比できる。愛する理由を全てくまなく挙げ連ねることができないのと同様に、固有名も性質の記述には還元できない。愛は自己から他者へと向けられたものであるため、愛というものは自己と他者の差異性と同一性が等置されるような体験なのである。しかし、絶対に到達されえない差異性を持つがゆえに「他者」の存在がいて初めて「自己」は「自己」足りえる。また、固有名の指示する単一性は宇宙(存在者の全体よりなるクラス)の同一性に対応するが、愛の唯一性を他者に対して説くことはそれと矛盾する可能性を含意する。つまり、その唯一の愛はAにでもなりえたし、Bにでもなりえた、という風な具合だ。

というように、愛の持つ、「自己」=「他者」となりえるような体験がもつパラドクスに言及しつつ、言語哲学という類比を踏まえて「形式」を華麗に論じていく。「私」の唯一性は、「私」の否定=「私」と「他者」の差異性によって、成り立つしかありえない、といういわば「否定神学」的な、自己矛盾を孕んだ性質を、社会性に当てはめていくのは、刺激的だ。

この本において、大澤は、自己存在こそ本質的に社会性を持ちうる(他者とのかかわりでしか表現されえない)という「形式」を用いている。言語哲学のくだりや、自己や他者を包括する超越性の審級について(おそらく大澤独自の理論としてこれが根幹だろうが)は、はっきりと理解するに至らなかった。彼の博引傍証ぶりにも、そして数学的論考も、難しかった。「形式」を使って、宗教や社会を論じる試みに、「熱きもの」はないかもしれない。ここから何かが生み出される、というわけではないかもしれない。しかし、難解でありながら彼の論理をたどたどしく追っていくことは、教養を齧ろうとするものにとって多少ペダンティックであれ、むしろペダンティックな部分が快感でありもするのだ。

309p
総計7620p