08読書日記30冊目 「市民とは誰か 戦後民主主義を問い直す」佐伯啓思

戦後民主主義が標榜してきた「市民」が、もはや「市民」として成立していない、という問題意識は共有できると思う。

ヨーロッパにおける「市民」とは、「自由・平等・博愛」という権利を手にできる代わりに、最低限国防の義務を負っていた。また、「市民」(シヴィックヒューマニズムであるところの「自由・平等・博愛」は「祖国について身を賭して戦った」という「正義・勇敢」の土台の上に立っている。その意味で言えば、大陸やアメリカの憲法が全て、国民の義務として国防を上げているのは納得ができる。この観点でいけば、日本に国防の義務が無く、アメリカにそれを依存している状況はかなり捻じ曲がっていると言えるだろう。

しかし、論理的にそう分かっていても、私は従軍したくない、という想いが有る。戦争になって、私がもし従軍して、相手の国の人間を殺すことになれば、ということを考えることは深甚なる苦痛を覚える。感情で「いや」であっても「しなければ」ならないことがあるのもわかっている。それでも、いやだ。

日本の戦後民主主義の「市民」観を本書が余すところ無く伝えているかと言うと、全くそういうことはない。しかし、いかに戦後民主主義がエリート「市民」のようなもの、つまり、個人の幸福のみを追求しうる個人を想定し、それによって本当に民主主義が成り立つ、と考えていたか、というのはよくわかる。今、現在において、「市民」は存在しないことは、非常に憂慮すべき事実なのだ。そして、民主主義は発展していくに伴って「市民」が負わねばならない責任や権力も増す。その重みに、我々が耐えられるかと言うと、否、と言わざるをえないだろう。

保守の論客の先生で、読みながら何度も自分の感情との論理的なぶつかり合いをおこして、いらだったが、概して、まともなことを言っている。私は、この感情にそうように、新たな概念を獲得していくしかないだろう。少なくとも、憲法について議論を深めることをそれこそ「市民」レベルでおこなわねばならないだろう。

論旨の細部は大雑把で、日本の精神史についてこの人の立場から踏み込んで叙述してあるものを読みたい。

201p
総計7946p