08読書日記60冊目 「人形の家」イプセン

人形の家 (岩波文庫)

人形の家 (岩波文庫)

ずっと前から(小学生くらいから)新潮文庫の海外棚にある本書は知っていたが、この本のなぜか私に陰気な印象を喚起させる題名から、ロシア人(どうしてそう思ったのか!)の陰鬱な戯曲なのであろう、と思って読むのを避けていたのだった。読書会のテクスト。

しかし、どうして、巧みなプロットと終結部のノラの圧倒的な叫びには、感動した。実のところ私は全くこの本の序盤で語られる幸福な家庭とそこに萌芽する悲劇については、類型的な想像力で、まさに類型的なストーリー展開を思っていたのだった。しかし、それはむしろ思ってもみなかった終末によって劇的に度肝を抜かされたのだ。

この劇は、近代劇の先駆と呼ばれているらしい。近代劇とは、その題材を同時代的な社会に求めたもの、という定義なのだろう。しかし、実は、この戯曲の主題において、「近代」はまさしく示されている。それは単に「女性解放」というありきたりのフェミニズムに毒される読み方ではなしに、私の誤読妄想も相まって、まさに「奇蹟」の喪失、という意味での「近代」なのである。

「奇蹟」とは何か。まったくの「愛」である。「愛」とは、ここではキリスト教的な愛に他ならない。振り返っておけばキリスト教的な愛とは、自罰による赦しであった。すなわち、人間がその生において神に対してもつ「原罪」を、神=キリスト自らが磔刑にかけられるという「自罰」によって、逆説的に救済したのだ。そのような他者の罪にたいして、その罪を受けた自らが、それを赦すために罪の遠因的原因であるところの自らを罰する、というものが真の愛である。そして、奇蹟である。そしてその奇蹟、神の愛が機能していたのが前近代、封建主義の時代である。

「人形の家」において、ノラは「偽書」というささいに見える罪を犯す。そしてその罪は夫を助けるために行われたものだった。物語の終末において、その罪が明らかになったとき、ルネは夫のヘルメルの奇蹟=愛を期待するが、ヘルメルはノラの罪を自ら引き受けることをせずに、許さかった。「奇蹟」は現れず、そのことで絶望に陥りつつも、力強い風にノラは、夫との訣別を宣言し、自らが自らのみによって生きていくことを宣言する。

しかし、このことは嘆くべき事態ではない。彼女は「奇蹟」をあてにすることはできぬが、その代わり自らを自らが頼みにして生きていくという運命を得る。内面に超越的な存在=自我をもっていくていくのだ。これは、まさしく「近代」の萌芽と言えないだろうか?近代とは、自らが信奉して己を賭けて取り組むべき超越的な他者を否定し、その超越性を自らの中に引き入れる運動であろう。奇蹟との訣別、神との訣別は、悲しい旋律を持つが、それは人間が人間として立ち直ってくる時代の、プレリュードとなる。

154p
総計16765p