08読書日記64冊目 「現代思想の冒険」竹田青嗣

現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)

現代思想の冒険 (ちくま学芸文庫)

京都から大阪に帰る途中の電車で。ほんで、実家で。思想史的な知識がある人なら、すぐ読めて、割りにうなづけるところの多い、簡潔で要点を得た入門書。

思想史的な(あるいは哲学史的な)入門書であると同時に、<社会>と<個人>ということについて、問題意識を持って読み解いていくスリリングな本。「人間存在論」のレポートを書く手がかりに、現象学について知りたくて、積読にあった本書を手にしたのだったが、実際、現象学(特に、フッサール)は非常に興味深い。

もはや真理はどこにも存在しない、ということはどうやら確からしい。しかし、マルクス主義にしろ平和主義にしろ新自由主義にしろ、どのような<社会>がありうべき社会なのか、という世界観を提示し続ける。ソシュールが全てのものは<言葉>によって生まれた、と看破し、デリダがその後を追って、あらゆる真実は(あるいはエクリチュール)は単なる記号にすぎず、それぞれの主観は、まさにそれぞれという意味で、差異化された差異であるだけである、と言い放ったのだったが、しかし、全ての思想家や政治家は、それでも「ありうべき世界観」を提示しようとする欲求に駆られてきた。再び言おう。そのように「ありうべき世界観」というものを希求することは、すなわち、そのたびごとに「真理」(ありうべき世界)を取りこぼしていくのである。そして、現象学においては、そのような真理は、むしろ間主観的な「信憑」としてのみ表われ、その「信憑」ではない別の「信憑」を持った他者に遭遇するごとに、主観の内部で<世界>が作り変えられていくにすぎない、というのである。

著者は、フッサールハイデガーと読み進め、最後にバタイユを持ち出して、超越性を求めざるを得ない実存者が、天性的な美や芸術的狂気など非凡でなければなしえない超越性への近似以外に、凡人がその超越性を見出せる場所として、最後の砦として、<社会>を定義する。大澤真幸が、自己内他者の差異性を担保にした協調を述べるのに、似ている気もするが、この<社会>を希求する存在の集合を<社会>と呼ぶのだ、自らから超越した場所を求めざるを得ない実存において、遠心化を行おう、ということではなかろうか。しかし、実のところ、最後のバタイユ以後の著者独自の見解については、よく分からない、といわざるを得ない。

250p
総計17756p