08読書日記74冊目 「内省と遡行」柄谷行人
- 作者: 柄谷行人
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1988/04/04
- メディア: 文庫
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言語論とか現象学(こっちはまだついてけるが)などの分野の諸氏、ソシュール、ヤコブソン、フッサール、デリダが登場して、これまた混迷を極める読解となりました。なんか、マルクスが出てきたときはほっとしたもん。浅田彰が解説で書いているように、この評論においては簡明な結論や考察はまるでなくて、ほとんど敗戦兵の手榴弾的に論陣が張られていきます。逃げても逃げたところで(つまり、自己言及のパラドクスに陥りながらも、それを何とかかいくぐろうとして)戦い続けていくわけです。
要するに、近代哲学、論理学は「第三者の審級」ともいうべき超越性に支えられた「均質空間」を基準に、つまり「外部」を「外部」として措定せずに「内部」へ深化していったのですが、その前提は常に何かを見落としてきたのではないか、というのが糾弾の内容だと思います。しかし、その「外部」へ手を伸ばすことは結局のところ、「内部」を拡張するほかはなく、ヴィトゲンシュタイン・ラッセル的な自己言及のパラドクスに陥ってしまうのです。では、どのようにしてそのようなわなを潜り抜けて「哲学」を行うのか? 一つ、提示されているのはマクロ/ミクロの二元論を超えて、それを内部から突っ切るような<差異性>に着目する、という方法論です。(だと思います)。
あー、むっちゃ難しい。嫌やー、って何回も思ったけど、最後の「転回のための八章」において、議論がそれこそ転回されて、「教える」という立場に活路を見出しつつあるところで、本書は終わっています。だから、次に柄谷さんの本を読むとすれば、「探求」なのかしらん?よーわからんかったけど、この人は確かに哲学者であり評論家なのだと、その「厳密性」において思い知らされた気がします。読むべき本はたくさんある。「隠喩としての建築」「マルクス その可能性の中心」「探求?」「探求?」・・・おお。。
326p
総計20526p