08読書日記80冊目 「地下室の手記」ドストエフスキー

地下室の手記 (新潮文庫)

地下室の手記 (新潮文庫)

矛盾して混沌とする自意識の渦の中に巻き込まれれば、とたんにしっちゃかめっちゃかである。最初の手記を読んで、ストーリー部分を読んで、再び最初に戻る、とまだその渦の整理ができそう。

ドストエフスキーの小説の核たるテーマは「貶められる」ということであり、そこにはほとんどの場合「愛」の萌芽すら感じられる。「愛」とは、何か。それはすなわち、いつの間にか落ちている状態であり、愛する対象への「道具的人生」こそが「愛」である。簡単に言えば、いつの間にか「あの人のために生きたい」、というような感情状態に陥っているものこそ、愛であった。

地下室の手記の作者で、まさに逆説的にしか自意識を表現できぬ主人公は、まさにこの「愛」を求め、そして恐れていたのだ。「愛」とはいつの間にか落ちている状態であり、そこに選択の余地は無い。つまり全く選択肢がない状況である。それは一方から見ればごく獣じみた存在であるかもしれない。選択をするのが理性的な人間だと定義するならば。主人公は、その点について何度も独白している。それはすなわち2×2=4という理想=理性への疑いであり、崇高で美なるものへの否認である。ロシア人の大多数は、自らをメタに見る、つまり冷笑的に見るシニストである、というようなことも独白される。自らをメタに見る、ということは、自らが演じている「自分」というものを意識的に措定して、それがあたかも「選択」によるものであった、つまり「理性」によるものであった、という逃避に他ならない。しかし、全くのところ理性的ではないはずの娼婦であるリーザは、そのようにメタに自意識を措定する理性的な主人公にたいし、「愛」を捧げるのだった。実際、愛とは「いっさいの復活が、あらゆる破滅からのいっさいの救いと新生が秘められている」ものなのである。それこそ「ほんとう」なのである。

愛こそは、「自分独自の恣欲」である。自分独自、とはすなわち、西洋風の借り物の思想から生まれたのでも、書物から生まれたのでも、「(大文字の)理性」から生まれたものでもなく、それは一見全く非理性的ですらある、選択肢の存在しない行動欲求に他ならない。愛こそは、いつの間にか落ちている、という意味で選択不可能な状態であった。「自分独自の恣欲」を欲すると同時に主人公は、私には、「本当のこと」を模索しているようにも思える。理性的で機知に富み、書物を齧り、西欧風の思想をモノにする人らは、実のところ「思想から生まれた人間」であって、「ほんとうのこと」をもつ人間でありはしない。

ほんとうのこと、とは、まさにそれが「ほんとう」であるがゆえに、自らが自らであるというところの実存である。その実存は幾重にも反射されたメタレベルの自意識の鏡の陥穽に、ひょっこり顔をのぞかせている深淵である。人間はその深淵に「愛」をもって沈んでいくより他はないのに、全く理知的なインテリゲンツィアは、その「ほんとう」から目をそらし続けるのである。そして、「ほんとう」を直視しようと、四方を壁に囲まれてじめじめとした隠遁生活を「地下室」の中で送る、主人公は、絶え間ない堰を切ったような独白を続けるしかないのである。

216p
総計22563p