08読書日記82冊目 「不滅」ミラン・クンデラ

不滅 (集英社文庫)

不滅 (集英社文庫)

実のところ、もっとも尊敬すべき現代作家の一人であることは私が保証しよう。

この小説について何かを書くとして、私は、やはり「愛」と「不滅」を冗長ながらも語らねばなるまい。「不滅」のほうからやろう。「不滅」とは霊魂の不滅、というのではなくて、ただ死んではいない、まだ生き続けている、世界にとどまっている、という状況を指す。ゲーテとその愛人(と称された)ベッティーナの長大な挿話と、複合的に絡み合う本編の中で、アニエスは「不滅」を拒絶し、世界に背をそむけようとした。一方彼女の妹ローラは自らを、自らの愛を「不滅」せしめようとする。次に、愛とは何か。愛とは(大澤真幸も書いていて、私も何度も引用しているように)絶対的な、選択不可能の、有るか無いかの様態である。愛とは、その唯一性において「自我」と等しい。つまり、限りない自我の発露、そしてその自我を他者の方へ照射することこそ愛である。

人が死んだ後も、彼の自我=愛が「不滅」であるとは、アニエスにとっては耐え難いことであるのだ。滅することのない自我は常に誰彼からの視線に絡みとられ、足し算的にwhatを付与されていく。自我をそのまま自我として取り扱うことが難しいのは、永井均のような議論でも確認できるが、しかし、自我を自我だと激情的に言い張ることでしか、自我は自我として承認されない。そのような自我は、アニエスにとって耐え難いものである。アニエスが、彼女の末期において、誰からも顔を見られたくない、背をそむけていたい、と感じるのはそのためである。一方、ローラは、彼女の愛が自我が、「不滅」であることを望むような自殺を試みもする。

愛とは自我そのものである、というのは、クンデラによれば、愛とは、愛するということにおいて、愛する主体を「赦す」からである。すなわち、愛とは、誰彼へ向けられるということが大事なのではなくて、最初から完結的なものなのである。その意味で、愛とは自我なのである。双方は他者の網目の中で確認されうるというような幻想で示唆されることが多いが、実のところ、愛は、強烈な激情を伴って主張される「不滅」の自我に他ならない。ローラが彼女の愛する人について何も知らないのは、そのためである。

アニエスや、それによりそうようでもあるクンデラは、そのような自我こそが、人生において耐えられないことだと語る。アニエスは彼女の父がしたように、自我を忘れ、自我を失い、自我から解放されるために、世界からの逃走を図らねばならなかった。ありもしない偽りのイマゴロギカルな自我から解放されて、<創造主>が創造する前に原始的に実存していた存在こそが、人生において確認されなければいけない問いである。存在、その基本的な存在。苦しむ自我を運びまわるのを止めて、ただそこに存在する、ということ。アニエスは、そこにこそ悦楽を見出したのだった。

クンデラは、ゲーテルーベンスなど、様々に多声的にポリフォニックに語りかける。ヒューモアは悲哀を倍化させ、流れ続ける面白味や世界から逃げようとしたアニエスの軽やかさ、それこそ存在の軽やかさが、心をふるわせる。第七章でアウトロのように静かに幕を閉じるこの小説こそは、私が書きたいと思い続けていた小説なのだ。(むろん、書くことなどできない)

591p
総計23405p