08読書日記85冊目 「親指Pの修行時代」松浦理英子

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 上 (河出文庫)

親指Pの修業時代 下 (河出文庫)

親指Pの修業時代 下 (河出文庫)

友達から薦められていた本。「ヴィルヘルム・マイスター」をもじったビィルドゥングス小説の体裁をなしている。

右足の親指が突然Pになってしまった女の子が、性について、恋愛について、友情について、様々な疑問をもちつつ、それに拘泥せずにたゆたうように成長していく物語である。私は、決してこの感想文の中で、Pについて、Pがペニスを指すのだとは言わないつもりだ。あ、言っちゃった。

作者が解説において語っているところによれば、この小説は「性器結合主義批判」のために書かれたものであるという。小説に目的を持たせて書くのはあまり好きではないが、しかし著者のこの目論見は成功している。方法論においてもそうであるし、あまねく性器結合主義者に激烈な一発を浴びせたに違いない。性器結合主義、と言われても分かりにくいだろうから、こう言い直そう。それは、性器同士を交接させねば気がすまない、むしろその交接にこそ、というより交接にのみ快感が宿るのだ、とする考え方である。なるほど、フロイト直結の考え方とも取れなくもない。男性において特にその性器からの快感の得られ方において、女性よりも積極的な得られ方が可能であることも理由であるのだが、男性のほうが、そのような性器結合について圧倒的に盲目的に信奉するものが多い。筆者は、結局、この性器結合主義に反旗を翻し、快感の得られ方において受動的である女性がペニスを得たなら、しかもそれは自らの身体の一番辺境である足の指にできたら、という想定において、小説を成功させている。

しばしば、作者の解説にも登場するが、このように性器結合のみにとらわれた快楽の形、あるいは愛情の形は、馬鹿らしいのではないかという問題提起が主人公の頭の中によぎる。つまり、性器を接合させるだけがセックスなのではないし、また一人の人だけを没身的に愛することだけが愛情の形ではないだろう、というのだ。私も多様な性のあり方や、一人だけを本当に愛すること、そして愛されることを求めることの愚かさを十分に知ってはいる。しかし、そうは言うものの、性器を結合させるあり方も好ましいし、どうしても一人だけを愛したくなる。

本書において、唯一登場しない「愛」の形は、盲目的な愛である。愛とは、そこに選択の余地がなく知らず知らずのうちに落ちてしまうようなものであり、しかもそのときには自らが愛する対象と同一であるような気分すら味わいたい、と思うようなものである。つまり、<他者>を愛する、とか愛さない、とか選択的に選べることはもはや愛ではない。選択できぬ切羽詰まった状況こそが愛なのである。別の言い方をすれば、メタ自己を想定できないような、本当の自我存在を賭けて他者存在へと向かっていくような志向作用こそが愛である。本書には、このような本質的な愛の描かれ方は主題からははずされている。主人公が経験するいずれの愛においても、主人公は「理知的」に愛するか否かを定めているのである。自問自答を繰り返しながらセックスを行い、愛しているのか考える。

しかし、そのように私の考えでは偽りの愛においても、主人公は満ち足りた精神性を享受している。それは、つまるところ、本質的にはマスターベーションと異ならないように、私には映る。愛とは、没自我なのである。つまり、自我を滅ぼして他者へと遠心化していく作用である。だが主人公が満ち足りているのは、自らを眺めるメタ自己の位相において、「私は幸せだ」とする感覚である。注意深く読めば、本書にはペニスという言葉は何千も登場するが、「愛」という言葉は、数えるほどに少ない。メタ自己のみを救うような愛の形も、長い人生の中では、それが必要になるだろうが、しかし、私は本当の愛、というものをイデオロギー的に拘泥してもよいから、そこに賭けてみたい気もするのである。

365+333p
総計24822p