08読書日記90冊目 「世界共和国へ」柄谷行人 

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて (岩波新書)

やっぱりものすごい勉強家、思想家、批評家。この本が新書で読まれていて、結構売れている、というのに驚くが、こんなものサラリーマンが読んだところでまったく理解不能であるだけに、学術書として読まれているのであろうか。資本=ネーション=国家、という三幅対をどのように超えていけるのか、ということについて、それまでのマルクス主義者のやり方や、ネグり=ハートの議論を批判・参照しつつ、「交換」の様態に基づいて考察している。

本書の鍵概念となるのが、交換様態の分類である。未開社会においては、互酬(贈与と返礼)が、国家においては再分配(略取と再分配)が、ネーションにおいては商品交換(貨幣と商品)が、交換様式として規定される。ネーション、というのは絶対主義国家において、絶対主権者の下で、すべての民が臣民であるという意味での同質性・均質性が生まれたことに端を発し、その絶対主権者が市民革命によって倒され、人民主権が成立するとともに現れた。ここで、ネーションが国家の位相と異なるのは、国家が国民からの略取を再分配する、という交換様式を持つのにたいして、ネーションは、「想像的な共同体」であろうとする機制を働かせる、という点にある。つまり、ネーションとは、国家が成立したことで失われた共同体内的な贈与と返礼の互酬システムを「想像的に」回復させているかのような組織なのである。簡潔に言えば、ネーションは存在してはいない。国家と市民社会を結びつけるものこそがネーション(想像された共同体)なのである(ボロメオの環)。

柄谷による喚起として、際立っているのが、マルクス主義者が陥りがちな「下からの」国家の揚棄を、ほぼ不可能なものであり、それは同時に宗教的、あるいはナショナリズム的な権力独裁(全体主義)を生むであろう、とすることである。マルクスにしろマルクス主義者にしろアナキストにしろ、国家を捨て去ってネーションへと回帰することを志向してはいるのだが、彼らは次のことを見落としているという。主権国家は対外国があって初めて独立存在するものであり、その意味では合わせ鏡のようであること、そして国家とネーションの交換様式は異なること、これである。

そのような資本=ネーション=国家、あるいは商品交換=互酬=再分配、という三幅対を乗り越えるために、筆者はカントを引き合いに出し、カントの「世界共和国」の理念を提唱する。そこで行われる交換様式を柄谷はアソシエーショニズムと呼ぶ。それは「自由」を優先させた互酬システムである。この根本原理として現れるのがカントのmaximであり、つまり「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という原理である。興味深いのはスミスの共感の原理にも言及されていることであり、スミスのsympathyの原理が市場において利己的である他者を尊重するという意味にほかならず、しかしその共感原理は共同体(互酬様式)には存在しない、と看破している点である。カントの「世界共和国」においては、その理念は「統整的理念」であるとされている。統整的とは、無限に遠いものであってもそこへ漸近していく、という意味である。この理念は鋭く「構成的理念」(社会を暴力的に作り変えようとする理念)と対立しているのだ。

柄谷のここまでの分析は極めて鋭いし、興味深く、面白いが、彼がそれを社会的に提唱する場合に、いかにも消極的にしかdesignを表明できない、ということが悲しいところであるような気がする。しかし、それはカントの悲観的なアイデアに基づくものであるし、仕方のないことなのかもしれない。「下から」の運動が失敗すると目に見えている今、国際的な「共同体」として世界が変容するためには、あるいは、他の星からの侵略しかないのではないか、とも思えるのである。

それにしても、議論喚起的な一冊であるには違いない。特に、興味を引いたのが、ポーコックを読んだこともあって、法と帝国の関係性、法と許しの関係性、交換における債務感と愛について、いろいろ思うところがあった。

228p
総計26387p